工場労働者は消耗品、知的労働者は年中無休

産業革命直後と比べると、現代の労働環境は大幅に改善されました。労働者は労働法で守られ、最近では働き方改革やワークライフバランスも重視されるようになりました。しかし、それでも働くことの根本的な辛さは解決していないように思われます。それはなぜなのでしょうか? その理由を探るため、いくつかのタイプの労働の辛さの本質を考えていきたいと思います。

まずは、産業革命以降、もっとも典型的な労働の形になった工場労働を見ていきましょう。そこではフーコーが指摘したように、労働者は決められた時間に集められ、監視されて「従順な身体」として調教されていきます。

監督者の目が常に光り、生産性を上げるためにすべてが細かく指示されます。このように、工場労働において人々はまるで「生産する機械」のように扱われてきました。ここに、資本主義社会の労働の典型的な「辛さ」が認められます。

額に汗を流して工場で働く女性
写真=iStock.com/ljubaphoto
※写真はイメージです

そして、資本主義が高度化すると、企画職、コンサルタント、プログラマーといった知的労働に従事する人たちも増えてきました。知的労働は仕事の裁量や行動の自由度もあり、クリエイティブに創造性を発揮する余地もあります。

しかし、単純作業ではない知的な労働だからこそ、3人の追手(時間・成長・数字)に無限に追いかけられるという別種の辛さがあります。知的労働者は顧客数や客単価など、数字で表すことのできる成果を残す必要があり、常に競争にさらされるため成長を続けなければなりません。知的労働者は24時間365日、これらの追手に追われ続けているのです。

「作り笑顔」をし過ぎた人の末路

さらに最近では、「感情労働」という言葉も生まれました。これは「感情さえも商品になる」という新しい労働のタイプともいえますし、一方で、あらゆる労働が「感情労働」化しているともいえます。

身近な例として、サービス業における接客が挙げられます。早朝であろうと、理不尽なクレームを受けた直後であろうと、従業員は笑顔で対応することが求められます。マクドナルド社が「サービスの原点」とも謳う「スマイル0円」は、まさにこの好例です。

感情労働は、アメリカの社会学者アーリー・ラッセル・ホックシールド(1940年-)が『管理される心』(1983年)で唱えた概念です。

本来、感情は個人の内面を知るための重要なシグナルです。楽しいときに笑い、悲しいときに泣くことは、人間の自然な営みといえますよね。しかし感情労働においては、この自然な感情表現が商品の一部として扱われてしまうのです。

恐ろしいのは、感情労働により「商品としての感情」を重視し過ぎると、次第にそれが内面化し、自分のほんとうの感情がわからなくなったり、逆に、ほんとうの感情を表現できなくなったりしてしまうことです。

近年では、感情労働が必要とされるのはサービス業に限られません。たとえばビジネス界では最近、「上司は常に機嫌よくあるべきだ」という言説が広まっています。この風潮も、管理職に対する感情労働の要求だということができます。

さらに、業務のIT化やリモートワークの普及に伴い、チャットツールでのリアクションやオンライン会議での表情においても適切な感情表現が求められるようになりました。文末が「。」で終わると冷たく見える。オンライン会議ではにこやかに。このような配慮も、立派な感情労働といえるでしょう。

このように、現代を生きる私たちは、体力と知力だけでなく、感情までをも労働力として差し出さなければならない状況に追い込まれているのです。