なぜ織田信長は天才と呼ばれるのか。歴史評論家の香原斗志さんは「非凡な合理主義と先進性を持ち合わせていたからだ。最新の調査でわかった小牧山城の姿を知るとよくわかる」という――。
織田信長像
織田信長像(写真=狩野元秀/長興寺所蔵/東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

当時ではかなり異例だった信長の「拠点移動」

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の第6回「兄弟の絆」(2月15日放送)で、美濃(岐阜県南部)の斎藤氏の家臣で鵜沼城主の大沢次郎左衛門(松尾諭)が、織田信長(小栗旬)の前に引き出された。この場所は、そのころ信長が居城にしていた小牧山城(愛知県小牧市)の主殿である。

永禄3年(1560)5月19日、桶狭間合戦で今川義元(大鶴義丹)を倒したとき、信長は清須城(愛知県清須市)から出陣していた。つまり、この時点では清須城を本拠地としていたが、第5回「嘘から出た実」(2月1日放送)で、居城を小牧山城に移転させた。

永禄5年(1562)に尾張(愛知県西部)をほぼ制圧すると、信長の次の目標は斎藤氏(この時点での当主は龍興)が君臨する美濃の攻略に移った。そこで翌永禄6年夏ごろ、清須の北東約11キロメートル、尾張平野のなかに浮島のようにそびえ、美濃方面を一望できる標高86メートルの小牧山に居城を移したのである。

もう少し先まで言及すると、その4年後の永禄10年(1567)8月、信長は悲願の美濃攻略を達成。斎藤氏が居城にしていた稲葉山城(岐阜市)を自身のあらたな拠点とし、城下の地名を井ノ口から岐阜にあらためると同時に、城の名も岐阜城とした。さらには、それから8年半ほどを経た天正4年(1576)2月、今度は安土城(滋賀県近江八幡市)に移っている。

「だからどうした?」と思う読者もいるだろうが、こうした拠点の移動は、ほかの戦国大名にはみられない信長の際立った特徴なのである。たとえば、武田信玄は躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)から、上杉謙信は春日山城(新潟県上越市)から、毛利元就は吉田郡山城(広島県吉田町)、北条氏政は小田原城(神奈川県小田原市)から居城を移すことなど、決してなかった。

では、この信長の特徴は、なにを意味しているのだろうか。