なぜ豊臣政権は長続きしなかったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「史料には書き残されていない当時の社会状況を考える必要がある。それを知れば、家康はもちろん、石田三成や福島正則といった秀吉恩顧の武将たちでさえ早期の政権崩壊を感じていたと想像できる」という――。
秀吉の死後たった2年で関ヶ原合戦が勃発
ほぼ底辺に近い身分から出世を重ね、関白まで上り詰めた豊臣秀吉。そして、兄の秀吉を支えて権大納言にまで出世した弟の秀長。いくら戦国の世とはいえ、ここまで極から極への下剋上は、この兄弟のほかには日本史上に類例がない。
このため、いったいどうしたら、どんな人物なら、これほどの出世が可能だったのか、という興味がわく。だから、いまなお秀吉は歴史上の人物のなかでも、飛びぬけて関心を持たれ、NHK大河ドラマでは再三取り上げられてきた。しかも、多くは主人公かそれに近いあつかいで、2026年の「豊臣兄弟!」も同様である。
だが、秀吉が秀長と手を携えながら、たった一代で築いた豊臣政権は、崩壊するのも早かった。
慶長3年(1598)8月18日に秀吉が死去すると、すぐに政権内部で激しい政治抗争が生じ、生前の秀吉が整備した体制は、すぐに崩壊へと向かった。浅野長政、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家の五奉行が実務を執り、それを徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(のちに上杉景勝)の五大老が監督するという体制である。
そして2年後の慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦が勃発するに至った。

