歴史学者に決定的に欠けている視点
実際、史料は書く立場によって内容が大きく変わるし、為政者は内容を操作したり、都合が悪いことは消したりと、簡単にコントロールできた。それに、史料に書く必要がない事柄や、あえて書かなかった事柄も、無数にあったはずである。たとえば、自身に野心があるかどうかなど、だれも書きはしないが、史料にないからといって「野心がなかった」と断定できないことなど、人間を知っていればわかる。
そうしたら、磯田道史『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)に、我が意を得た表記が見つかった。
「日本の学問としての歴史学は、史実のピックアップにおいては水準が低いものでは、ありません。しかし、大抵の歴史学者は政治や外交、戦場指揮の現場を踏んだわけではなく、政治記者のように政治家と会う機会も少ないものです。ですから、政治の裏読み、感情で動く政局分析などが得意分野ではありません。得意なのは史実の羅列です。しかし、豊臣兄弟などの分析をしようとすれば、古文書に書かれている文字だけを鵜呑みにせず、史料の行間まで、しっかり読む必要があります」
日本の歴史学の限界を鋭く突いている。
当時の乳幼児の死亡率の高さや成人率の低さを認識している武将たちが、家康にかぎらず野心を持つのは自然なことだと思われる。石田三成のような側近の吏僚も、福島正則のような親戚筋の子飼いも、豊臣政権の存続を希望していたかもしれないが、存続できる可能性が高いと信じていたとは思えない。
史料に残すはずがないこと
関ヶ原合戦の前後から、日本の城郭の構築技術は急速に高まり、西国大名を中心に、高石垣で固められ広い堀で囲まれた堅固な城郭が数多く築かれた。加藤清正の熊本城などはその典型だが、それはふたたび戦乱の世が訪れると、大名たちが実感していたからである。
その判断の背景にあったのは、秀頼が成長する可能性は高くなく、野心をむき出しにする大名が現れるという読みではなかったか。だが、秀頼が夭折する可能性についてなど、だれも史料に残すはずはない。そういう判断は、史料の行間を読み、当時の社会状況を史料以外からも判断し、さらには、そこで活動した人間の心理を読むことからしかわからない。
豊臣政権が短期間に崩壊したのは、やはり秀次事件を経て、後継者が1人になったことで、だれもその存続を確信できなくなったからではないだろうか。そういう状況で野心をいだくのが人間という生き物である。


