なぜ簡単に崩壊したのか
この合戦は豊臣政権内部の権力闘争であったものの、家康は慶長8年(1603)2月に征夷大将軍に就任し、2年後の同10年(1605)4月、将軍職を嫡男の秀忠に譲り、徳川による権力の世襲を天下に示した。そのうえで同20年(1615)5月、大坂夏の陣で豊臣氏は滅ぼされた。
このように豊臣政権は儚かったが、秀吉が築いた絶対的な権力構造は、なぜこうも簡単に崩壊してしまったのか。
これに関して2025年12月末、NHK・BSで「豊臣政権サミット2026 ~なぜ豊臣政権は崩壊したのか~」という番組が放送され、研究者らが討論した。そこでは豊臣政権崩壊の要因についていくつかの説が提示され、意見が述べられた。
最初に示されたのが「史上最強最高の弟を失った説」、すなわち、軍事面でも大名との外交においても政権を支えた秀長が、小田原征伐の翌年の天正19年(1591)1月、早すぎる死を迎えたからだという説だった。次に「秀吉があまりに天才すぎた説」、つまり先見性がありすぎて世の中とのギャップが生じたという見方も示された。
続いて、國學院大学の矢部健太郎氏が提示したのが「秀吉コミュニケーション不足説」だった。秀吉は甥の秀次に関白職を譲ったが、実子の秀頼が生まれると、秀次とのコミュニケーションにズレが生じ、秀次は切腹してしまう。朝廷の最高位の関白がその地位を血で汚したとあっては、豊臣政権は朝廷への体面をたもてない。そこで秀吉は「謀反を企んだので切腹させた」と大名に通達して秀次を大罪人に仕立て、その妻子ら30人を処刑した――。これが豊臣政権の終わりのはじまりだ、という説である。
結果として後継者が幼い秀頼だけになってしまえば、たしかに政権はもたない。
乳幼児の死亡率がカギ
ほかにも「朝廷とのパイプを失った説」や「民の支持を失った説」、「関東・東北を軽んじていた説」が提示された。むろん、政権崩壊はさまざまな要因が複合した結果だと思われるが、やはり筆者は「秀次事件」により、後継者がまだ数え3歳の秀頼しかいなくなった影響が大きいと考える。
秀吉には天正17年(1589)5月に、実子の鶴松が生まれたが、同19年8月に没している。それ以前には、同4年(1576)の記録に石松丸という名が見られ、実子の可能性もあるが夭折している。実子に恵まれなかった以上、血のつながりのある養子が後継者候補になるが、姉の子である秀次は、文禄4年(1595)7月15日に切腹し、その後、その子息も斬首されてしまった。
それ以外では、秀次の弟の小吉秀勝は、文禄元年(1592)に出兵先の朝鮮半島で病没。その弟の秀保は、秀長の跡を継いでいたが、秀次死去の2カ月前に病死していた。つまり秀次事件の時点で、秀吉と血縁がある男子は、名実ともに幼い秀頼しかいなかったのである。
そうである以上、のちの五大老や五奉行にせよ、福島正則や加藤清正のような秀吉との親類または子飼いの大名にせよ、豊臣政権が今後も続くことを信じていなかったのではないだろうか。戦国時代には、乳幼児の死亡率がきわめて高かったからである。

