権力の誇示としての城
だが、いざ美濃を手中にすると、もはや小牧山城では便が悪い。美濃攻略には好適地であっても、その後、西に支配を広げるための拠点としては相応しくない。だから信長は岐阜城に拠点を移した。拡大した権力にとって、小牧山では手狭だったこともあるだろう。
ただし、標高329メートルの金華山上に展開する岐阜城は、山上部と山麓の二元構造という、古い城の特徴を引きずっていた。そこはさすが信長で、岐阜城の構造を逆手にとって自身の高い求心性を表現した。招かれたイエズス会宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』などによれば、山麓御殿は小牧山城と同様に巨石で取り囲まれ、信長の許可なしにはだれも入れない宮殿は4階建てで、内部は障壁画や純金製の金具や釘で飾られていた。上層階からは城下町が見渡せ、この御殿前の防御された入口までは、長い通りに家臣団の屋敷が並んでいた。
信長が岐阜城を徹底改修して、小牧山城の構造を導入しつつ、より豪華にしたことがわかる。そして山上にも、特別な許可なしには入れない御殿や天守が構えられた。フロイスは信長が岐阜城を築いた理由を、自身の権力と、ほかの戦国大名以上の力をもっていることを示すためだ、という旨を書いているが、フロイスの理解は正しいといえる。
そのさらなる発展形が安土城であったことは、いうまでもない。このように信長の先進性も、合理性も、めざした権力のあり方も、居城を移転させたことや、その城の構造を検討するとわかるのである。


