「地元の子がいない強豪校」への違和感
夏の甲子園。アルプススタンドで声を枯らすおっちゃんがいる。
地元商店街で電気屋を営んで40年。「○○高校、初の甲子園出場!」の報を聞いたとき、彼は即座に仲間に声をかけた。「おい、バス借りて応援行くぞ!」
魚屋の大将、和菓子屋の女将、薬局の若旦那――みんな二つ返事だった。
エースの健太は、魚屋の大将が「今日もランニングか、えらいな」と声をかけ続けた子だ。四番の翔太は、和菓子屋でどら焼きを買うたびに「甲子園連れてってや」とからかわれてきた子だ。
ところが、である。アルプススタンドで応援していると、隣の常連客がぼそっと言った。「なあ、あのショート。あの子、地元の子とちがうなぁ?」
調べてみると、ベンチ入りメンバーの半分以上が県外からの「野球留学生」だった。おっちゃんは、急に応援の声が小さくなった自分に気づいた。彼らが悪いわけではない。夢を追いかけて遠くから来た子たちだ。でも、「俺たちの子」という感覚が薄い。
この違和感こそが、「応援」という行為の本質を射抜いている。
応援の本質は「物語への参加」である
なぜ人は誰かを応援したくなるのか。
そして、なぜ経済的に余裕のある人ほど、社会貢献や「タニマチ」的な支援に惹かれるのか。
結論から言えば、それは「物語」を求めているからだ。
商店街のおっちゃんが甲子園で声を枯らすのは、野球が好きだからだけではない。「あの健太が」「あの翔太が」という物語の続きを見届けたいからだ。自分が関わってきた人間が大舞台で輝く瞬間に立ち会いたい。そして、その物語の一部に自分もなりたい。
人は、自分の人生に「意味」を求める生き物だ。毎日同じことの繰り返し。店を開けて、客と喋って、帳簿をつけて、店を閉める。ふと思う。「俺の人生、これでええんか」と。
そんなとき、「応援できる誰か」がいることの意味は大きい。自分の人生を、誰かの成功物語に「接続」できる。健太がプロになれば、「俺はあの子にキャッチボールを教えたんや」と語れる。自分の人生が、大きな物語の一部になる。これこそが、応援の本質なのだ。
1300万円の寄付を即決した、IT経営者の一言
この「物語への参加欲求」が爆発的に可視化されたのが、2023年の国立科学博物館のクラウドファンディングだ。資金難に陥った「かはく」が1億円を募ったところ、わずか9時間で達成し、最終的に5万人以上から9億2000万円が集まった。
このうち、1300万円を即決で寄付したIT経営者は「思い出の場所を守りたかった」と語っている。これは単なる寄付ではない。自分の人生の一部である「物語」を守る行為なのだ。

