なぜ豊臣秀吉は天下人になれたのか。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「秀吉は非常にアイデアマンだった。彼の軍事活動に注目すると、それまでの戦争の常識を変えることで勝利を重ねていったことが分かる」という――。

※本稿は、本郷和人『軍事の日本史[新装版] お金・戦略・武力のリアル』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

豊臣秀吉像
豊臣秀吉像(画像=高台寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

なんだかんだ「三英傑」が一番強かった

歴史談議でおなじみの永遠のテーマ、いわば歴史談議のサステナビリティーみたいなものですけど、「戦国時代は誰が強かったのか」ということがよく議論されます。本当のことを言えば、答えは出ているわけですね。

それは何かというと、じつにつまらない答えになるんだけど、ここまで見てきたように、戦いは軍事力である、軍事力は数である、ということから「戦いは数である」。となれば、歴史が示すとおり、信長、秀吉、家康が一番強かったと言わざるを得ないわけです。

でも、それじゃ面白くないだろうということで、いろいろ考えてみると、この3人の行った軍事活動の中でも、一番面白いのは秀吉という人だろうと僕は思います。

食料補給を重視した「経済戦争」

秀吉は、きわめて独創的で創造的な人です。

まず一つ目は、秀吉は軍事を経済に置きかえた、ということが言えます。

城を攻めるには、これはいろいろな説がありますけど、一般的には、守っている人間の3倍の兵隊を用意しないと城は落ちない、これが鉄則だと言われています。ですから、攻めるときには相当な数が必要になるわけですが、一方、守るという点で見ても、兵隊の数を増やせばその分、攻める側にプレッシャーを与えることになります。

しかも城を守ることには利点があった。当時、兵隊の多くが農民でしたから、彼らの普段の生活は農作業が中心です。どうしても農繁期にかかったときに、戦を終わらせて帰らなければならない。兵農分離がうまくいってたわけじゃありませんから、その時期になると、お城を攻めている場合ではない。

それから、大勢の人びとが軍事に従事するとなったとき、根本的に必要になるのは食糧です。その補給がままならない状態で戦ったのが、だいたい室町時代ぐらいまでの日本の軍事です。補給をちゃんとしないまま、遠征先で略奪して食糧を調達していました。

そういう意味でいうと、秀吉はきちんと兵隊を食べさせるという方法をとりました。つまりは、補給というものの大切さを徹底的に理解し実践したのが秀吉であると言える。

そうなると、秀吉の戦争というのは、城攻めがとくにそうなのですが、経済戦争になっていく。つまり、相手の食糧をどうやったら効果的に奪うことができるのか。自分たちの軍勢を、兵隊をどうやったら効果的に食べさせることができるのか。そこに注目します。