敵方の兵糧を買いあさり、飢えさせる

例えば、まだ信長の武将であった羽柴秀吉の時代に中国地方を攻略します。そこで何をしたかというと、兵糧攻めです。非常に考え抜かれた兵糧攻めを仕掛けたのは秀吉です。

それが一番、見事にはまったのが、鳥取城攻めです。

鳥取城を守っていたのは吉川経家という武将でした。彼はこの城の本来の城主ではありません。毛利家に命じられて、城主に就任した。だから、この城はいずれ落とされるかもしれないけれど、それまで一生懸命がんばって守るんだ。落城するまでたっぷり時間をかけさせて、鳥取城を落とす高額な代償を払わせるんだという意気込みで、彼は城に入ったのです。

ところが、実はそれ以前の段階で、秀吉はべらぼうな高値で、鳥取城からお米や備蓄されていた食糧をあらかた買っていたのです。実際、秀吉が攻めて来て吉川が城に立てこもったとき、「食糧はどうした?」「あ、秀吉に売っちゃいました」という話になっていた。

たしかに秀吉は、食糧を買いあさるのに相当高いお金を払ったかもしれないけれど、それを使って、腹いっぱいご飯を自分の兵隊に食べさせることができた。ここで理想的な形での兵糧攻めが行われ、鳥取城はいとも簡単に落ちたということになります。

補給に着目した秀吉は、まさに経済をきちんと理解していた。「戦争は経済が支配する」ということを、このときすでに理解していたことになるんじゃないかと思います。秀吉は、軍事を経済に置きかえた。これが一つです。

味方の犠牲を最小限に抑える戦略

そして二番目に、秀吉は、戦争を土木工事に置きかえた、と言えます。

お城を攻めるとき、攻撃する側は3倍の兵隊をそろえなくちゃ勝てないわけですから、つまりはそれだけ多くの犠牲が払われる。ふつうの野原で戦うよりもさらに城を攻撃する側に犠牲が出るのは当たり前と考えられています。

そこで秀吉は、お城を攻めるのに、大々的な土木工事を行って、人間の命をなるべく失わないで城を落とすという方法を編み出します。

例えば、さきほど言った鳥取城の場合は、兵糧攻めで追い詰めた以外にも、いわゆる「陣城じんじろ」といって砦のようなものをお城の周りにいっぱい作ることによって敵の動きを封じ込めました。

その完成形と言えるのが、1582年(天正十年)の備中高松城攻めです。