「水攻め」で見事に城を落とした

高松城を見た秀吉は、「これは工事をやることによって水の中に水没させられる」と考えました。僕も実際に現地へ行ってみたのですが、秀吉の戦術は、このあたりの地形を実によく利用していたことが分かりました。

いくつかの地点で工事を行うと、全体として高い堤防を形作ることができる。そこで、足守川という川のせきを破ると、高松城一帯が川の水で水浸しになる。

高松城の周囲全体を新造の堤防で囲ったわけではないんですね。行ってみると分かるんですけど、ある何カ所かだけに手を加えれば、十分に高松城が沈む。このように、秀吉は土木工事をやることによって、高松城を沈めさせ、落城に追い込むことに成功します。人的な損害はほとんどありません。

高松城水攻築堤の図
『高松城水攻築堤の図』(画像=月岡芳年/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

まさに秀吉にとってみると、城攻めというのはダメージ覚悟で味方を突撃させるだけではなくて、こうした土木工事という工夫によって、城を落とすことを可能にするものだったのです。

2万の兵が「高速」で大移動できた理由

それから三番目に、秀吉は、軍事を運動に置きかえた、ということが言える。

秀吉は、1582年(天正十年)、本能寺の変のときに「中国大返おおがえし」をします。

今お話しした備中高松城攻めで今の岡山県に出向いていた羽柴秀吉は、信長の死を知るとすぐに毛利と和平を結び、明智光秀を討つため京に向けて全軍を大移動させます。これは約10日間で約200キロを走らせた日本史上最大の強行軍です(ちなみに世界史を見ると、象まで連れてアルプスを越えた、なんていう、もうとんでもない人物もいましたよね)。

このとき秀吉の軍事の才能がいかんなく発揮されます。それは何といっても運動性能を重視したことです。兵隊をどうやって動かすか。そのことに秀吉は非常に長けていた。秀吉軍はプロの軍人の集団ではありません。農民が多く含まれていた。彼らは戦いたくないわけです。機会があれば逃亡したい。そうした2万の兵を統率して強行軍を実現した。とんでもない手腕です。

このときに秀吉は兵の士気を高めるべく、いろいろと策を立てたのでしょうが、具体的に何をやったかは残念ながら史料が残っていません。一説によると、兵隊たちの鎧兜を全部脱がせて、身軽な格好にして運動性能を高めたという話もあります。

その脱いだ鎧兜は、船に載せて、前もって陣地を構えている所に先回りして送り、その鎧兜を、裸で走ってきた兵隊たちに着せたのだそうです。本当かな?