※本稿は、酒井信『吉田修一と『国宝』の世界』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
なぜ『国宝』は歌舞伎の女形を描いたのか
吉田修一の作品の大きな特徴の一つは、かつて芥川賞の選評で村上龍が指摘したように、これまでほとんど近代文学で描かれて来なかったような職業に就く人々の描写にある。『国宝』で描かれる「人間国宝」や歌舞伎の女形も、そのような仕事と言えるだろう。
映画「国宝」では、吉沢亮が立花喜久雄(花井東一朗)の妖艶な所作を見事に体現し、横浜流星が大垣俊介(花井半弥)の浮き沈みの激しい人生を、巧みに表現した。
映画「国宝」で二人のスターが共演した「二人藤娘」「二人道成寺」「曾根崎心中」に魅了された人は多いと思う。『国宝』は長崎のやくざ一家に生まれ育った喜久雄が、上方で修業を積み、歌舞伎の女形として大成していく物語である。
そもそも歌舞伎の女形とは何を表現するために存在しているのだろうか。男女の性差の境界を超えた、女形の演技が歌舞伎の舞台に必要とされている理由とは何なのだろうか。さらに言えば、男女の性差にグラデーションのある人々を数多く描いてきた吉田修一という作家は、『国宝』で女形の歌舞伎役者を描くことで、何を実現しようとしているのだろうか。
自殺する場面で客席から喝采が起きる
歌舞伎は、近代的な価値観とは折り合いが付けにくい仕来りや作法に満ちた伝統芸能であり、世界の舞台芸術と比べても、奇妙な「演劇」であると私は考える。
たとえば「義経千本桜 大物浦」では、落ち武者となった血だらけの知盛が錨と共に海へ身を投げる場面で喝采が起き、幕を閉じる。歌舞伎に馴染みのない人々から見れば、自殺する場面で客席から喝采が起きることそのものが、奇妙なものに映るだろう。
日本は自殺率が先進国の中でも群を抜いて高い。歌舞伎に代表される伝統芸能が、自殺を美化し、自殺によって生前の罪が償われるという価値観を、今なお日本の社会に浸透させている、と考えることもできる。
こうした「名誉ある死」を選択する前近代的な死生観もまた歌舞伎が継承してきた伝統的な価値観の一つに他ならない。『国宝』の中でも近松門左衛門の「曾根崎心中」の「心中」の演技指導として、次のような助言が、二代目の花井半二郎から主人公の喜久雄に向けられている。
映画「国宝」でも印象に残る名場面の一つである。

