八雲が見ていたのは“想像するビスランドという女性”

後年はエッセイを多数残したビスランドだが、常にメッセージは強烈だ。19世紀の男性優位の社会を批判したかと思えば、女性も批判する。スペインを訪れて闘牛見物を喜んでいる女性達を「悪魔的」と書いたり、キリスト教は女性を貶めたと批判する。

これほど自分の意見を明確に持ち、それを臆せず表明する女性である。ならば、八雲にじっと見つめられても、動じることはない。

八雲が相手を観察し、物語を聞き出そうとする時の、あの異常な集中力。近眼ゆえに異様に顔を近づけ、「冷血漢とさえ思われるほど真剣」に相手を見つめる姿勢。それは確かに、多くの女性を「この人は私だけを見ている」と勘違いさせた。

だが、ビスランドは違った。

八雲が見ているのは「エリザベス・ビスランドという女性」ではなく「八雲の想像するエリザベス・ビスランドという女性」だと、彼女は見抜いていた。だから、八雲からの熱烈な手紙を受け取っても、ビスランドは冷静に拒絶できた。

おそらく八雲の、回りくどく詩的な愛の告白を読みながら、ビスランドはこう考えただろう。

「ああ、また例のパターンね」

ビスランド自身、何度も取材で人に会い、話を聞き、記事にしてきた。そのたびに相手は「この人は私に興味を持ってくれている」と勘違いしただろう。でも翌週には、ビスランドは別の人物を取材し、同じように真剣に話を聞いていた。

ビスランドが保っていた“絶妙な距離感”

八雲も同じだ。

今は自分に夢中になっているように見えるが、それは一時的なものだ。やがて別の「興味深い女性」が現れれば、八雲の視線はそちらに移る。あるいは、実際に結婚して日常を共にすれば、八雲は「理想」と「現実」のギャップに苛立つだろう。

1889年のラフカディオ・ハーンの写真
1889年のラフカディオ・ハーンの写真(写真=Gutekunst/Concerning Lafcadio Hearn, 1908/PD US/Wikimedia Commons)

そして何より、ビスランドは一緒に暮らすのは絶対に無理だと判断していたのだろう。神経質で、すぐに不機嫌になり、感情の起伏が激しく、創作に没頭すれば周囲が見えなくなる。おまけに「完璧」を求める。そんな男と毎日顔を合わせて暮らす?

絶対に、やっていけない。だからビスランドは、言葉を選びながらも拒絶の意思を示し続けていたのだ。彼女の内心はこういうものだったろう。

「あなたの才能は尊敬しています。でも恋人としてはお断りします」

ただし、完全に関係を断ち切ることはしなかった。これは、作家としての美学だったのだろう。八雲の才能を認めていたビスランドは、感情的な拒絶で関係を破壊するのではなく、「同業者」としての距離感を保ったのだ。

後年、ビスランドが八雲の名を後世に残す役割を果たせたのは、恋人でも妻でもないが、作家として深く理解しているという絶妙な距離感だったのである。

こうしてみると、ビスランドが「とにかく自分好き」のイヤな性格みたいにも見えてくる。でも、その自意識の強さこそが彼女の魅力であり、八雲が恋した部分でもあったのだ。