山本七平が『「空気」の研究』を著したのが1977年。以来、版を重ね超ロングセラーとなっている。同書の問題提起から約50年、変わらず日本を支配している「空気」の正体とは何か。

合理性より半径5メートルの調和を重んじる

日本社会には、論理や法律、あるいは科学的な正しさよりも優先される「何か」がある。山本七平はその正体を「空気」と呼びました。私なりに定義すると「合理性よりも半径5メートルの調和を重んじる同調圧力」となります。「合理性」を持つには、俯瞰する力や全体を見る姿勢が必要ですが、半径5メートルの調和は、限られた部分の整合性なので、「部分最適」にしかなりません。この部分最適をそのまま全体にまで押し広げてしまったときに出てくる不条理な同調圧力のことを「空気」と呼ぶのです。半径5メートル以内では最適だけど、それ以上に広げようとすると、整合がつかなくなってしまうのです。

山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)

それに関連して、劇作家の鴻上尚史氏が、2009年に出版した著書『「空気」と「世間」』に「世間が壊れたときに出てくるのが空気」だと書いています。

「世間」は互酬関係で成り立っています。義理と人情、持ちつ持たれつ、お互いさま。ギブ・アンド・テイクの均衡感が共同体の信頼をつくっているわけです。が、それが崩れると、緊急に共同体を仮構しなくてはならなくなる。そのとき、ある人や物を中心としてウチとソトの境界線が恣意的に虚構されることになるわけですが、その「差別の道徳」こそが「空気」の本質です。

わかりやすい例が、あのコロナ禍でしょう。ある権威を持った医師が、「接触8割削減化」を声高に叫んで、そこにウチとソトの境界線が立ち上がれば、もはやソトから何を言っても「自粛の空気」は崩れませんでした。

そして、そのときに重要になるのが「臨在感的把握」です。山本七平の用語ですが、要するに「あるモノへの過剰な感情移入」です。あるモノに主観的に感情移入をして、それを祭り上げたり、過剰に排除したりする。そのことによってウチとソトを分ける境界線を醸成する。ウチ側の調和が「半径5メートルの調和」であり、このなかにあるものは汚れなきもの=「浄」となる。その点、半径5メートルの調和がいかに不条理でも、そのなかでは不安や孤独は感じなくてもいい。「空気」は「生せい」を囲い込むのです。

コロナ禍で、人通りがまったくなくなった大阪・道頓堀(2020年5月)
コロナ禍で、人通りがまったくなくなった大阪・道頓堀(2020年5月)。「自粛の空気」は崩れなかった。

それに対して、「不浄」なものとして排除されたソト側は、その孤独感のなかで死の恐怖を感じ、それゆえに「空気」への恭順を強いられるのです。

そして、「空気」において最も問題なのは、このウチとソトとの関係がフィックスされている点です。ふつう合理的思考というのは、ウチとソトの両方に目を配り、その両者にどう折り合いをつけ、全体としてどう整合させるのかを考えることですが、「空気」は、単にソトを排除して、それについての思考停止を命じる。だからこそ、その不条理を解くことができないのです。

よく私が例に出すのは、ウチで「平和」を祭り上げ、「戦争」をソトに排除する戦後平和主義の「空気」です。「戦前」「戦争」と聞くと、何か穢けがれたものに触ったように感じ、「戦前」や「戦争」とどう付き合うのかを問う保守や軍事研究者を毛嫌いする。あるいは環境保護やSDGsを過剰に祭り上げる人も同じです。そこにちょっとでも疑問を差し挟もうものなら、すぐに「穢れ」として排除される。どうやって議論に折り合いをつけるのかという視点がないのです。

「空気」は世界に共通して存在する

それでは、この「空気」という現象は、日本特有のものなのでしょうか。

そうではありません。「空気」は、多かれ少なかれ世界中で見られる現象です。山本自身も指摘していますが、古代ギリシャ語で「プネウマ」という言葉があります。これは日本語の「空気」にあたります。プネウマは「世界の根本原理」とも言われているのですが、それが後には「スピリトゥス」から「スピリット」すなわち「精神」という言葉にもなっていきます。またドイツ語では、「息」や「風」「精霊」を意味する「ガイスト」という言葉にもなっていきます。

(構成=本誌編集部 写真=時事通信フォト)