取引先に酒を飲ませる「接待」 はいつビジネスの重要な一角を占めるようになったのか。山口大学准教授の右田裕規さんは「太平洋戦争前後の時代に、物資の供給を管理していた軍人官吏へ企業が歓待したことが一つの始まりだ」という――。
※本稿は、右田裕規『「酔っぱらい」たちの日本近代』(角川新書)の一部を再編集したものです。
「社用族」は戦時経済が生んだ
接待のための酒宴が、会社人にとっての「仕事」となりはじめたのは、比較的早い時期に遡る。
たとえば1898年、農商務省の諮問会議(農商工高等会議)において衆議院議員・井上角五郎は、次のように社費による役人接待の頻繁化を述べている。
各会社が〔略〕農商務省の御役人や、県庁の御役人の接待掛を設けて、而かも此の接待掛は煩忙なる一つの仕事になって、来年、来々年当りは、各会社の交際費は最も多額を、此の接待費が占むるに至るかも知れぬ〔。〕
(『農商工高等会議議事速記録』)
(『農商工高等会議議事速記録』)
会社の交際費を用いたこの種の酒宴がとくに増えたのは、太平洋戦争前後の時代においてであった。この時代になって、企業による接待関連の濫費がことに目立ってきたことは、多くの資料が語っている。
およそあらゆる物資の需給が、「軍人官吏」によって計画的に管理されはじめたことで、かれらの歓待が企業にとって必須の工作となったためである。戦後のいわゆる「社用族」の原型も、この時代に成立したものだった。1953年、元慶應義塾塾長の小泉信三が、以上の点について的確な説明を行っている。
社用族という、結構でない名称は、すでに普通語以上に陳腐なものになった。〔略〕軍人官吏の酒色を悦ぶものを饗応して、請託を聴かしめることは、戦前戦時の統制経済時代から殊に甚しくなったのであったが、それが戦後に引き継がれ〔略〕住宅も車馬も社交費も、皆な社費をもって弁ぜられるということが普通になって以来、遽かに濫費は人の目に余るものがあるようになった。抑も飲食を共にして、談笑交歓することは〔略〕何処までも、主人(host)たるものが自分で費用を出して心を配り、それこそ馳走して客を歓ばせるから意味があるので、会社の金を使って、接待係に世話をさせるというような宴会を、客の方でも多とする筈はなく〔略〕人の金だから、構わず使うということになり、人の品性も破り、会社部内の秩序も乱るというのが、今、日々見聞する事実となった。
(小泉信三「社用族」)
(小泉信三「社用族」)

