昭和前期、戦争に向かう日本で、女性たちはどのような生活をしていたのか。埼玉大学教養学部教授の一ノ瀬俊也さんは「留守を預かる主婦たちは生活苦であっても不満を言うことが許されず、隣人に反戦思想がないか各家庭が監視し合っていた」という――。(第1回)

※本稿は、一ノ瀬俊也『〈国防〉の日本近現代史 幕末から「台湾有事」まで』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。

靖国神社を参拝する大日本国防婦人会の会員
靖国神社を参拝する大日本国防婦人会の会員(出典=『靖國神社臨時大祭記念寫真帖:昭和十三年十月』(靖國神社臨時大祭委員、昭和13年10月/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

軍部が後押しした「女性の社会進出」

昭和戦前期の女性たちは、総力戦思想下の〈国防〉にどう関与して/させられていったのか。

石原莞爾が主導して1931(昭和6)年9月に起こした満洲事変は、国際社会から武力による侵略とみなされ、批判を招いた。しかし日本国内では中国の利権回収運動に対する自衛、正義の行動と宣伝されたため、国民のあいだに高揚感をもたらした。

事変下の32年3月、大阪で主婦の安田せいたちが「大阪国防婦人会」を結成し、兵士たちへの見送りや慰問などの活動を行った。この会は軍部の支援を受けて急速に発展し、10月、東京で「大日本国防婦人会」が結成された。やがて多数の会員を獲得し、同種の女性団体である愛国婦人会や、連合婦人会をしのぐ巨大組織となる。

国防婦人会は、白のかっぽう着に会名を記した襷をかけた会員の女性たちが各地で「国防は台所から」をスローガンに、出征兵士の見送りや慰問などの軍隊支援活動を積極的に展開した。その背後には陸軍の強力な支援があり、会の組織は陸海軍の予・後備役軍人の統制団体である帝国在郷軍人会をモデルにしていた。

婦人運動家の市川房枝は『女性展望』1937年9月号で、国防婦人会について「いうべき事はあるが、しかしかつて自分の時間というものを持った事のない農村の大衆婦人が半日家庭から解放されて講演をきく事だけでも、これ婦人解放」であると好意的に評した(鹿野政直「ファシズム下の婦人運動」)。同会は女性の社会進出の一環としても語られるが、それを支援した軍部の意図はどこにあったのか。

女性軍事支援団体の会員争奪戦

女性の大規模官製軍事支援団体として、すでに前出の愛国婦人会が存在した。1931年には文部省系の大日本連合婦人会も設立された。これに対して国防婦人会は陸軍の支援のもと、会費の安さなどで大衆性を強調し、各地で愛国婦人会との会員獲得競争を繰り広げた。

国防婦人会は女性たちに、総力戦体制確立への貢献を求めた。たとえば、同会総本部が1936年4月に発行した『大日本国防婦人会の栞』は、

国防施設の元素たる人と金と物については、女子は匿れたる重要基礎を与えるものです。よき子を生んで之を忠良なる臣民に仕立て、喜んで国防上の御用に立て其の任に精進せしめ、立てた以上精神的にも物質的にも其の後顧の憂を除くよう家事を整え、又家庭経済を確立して国家経済に寄与すると言うことは実に女子の責任であり、此の責任を果すことは、実に国民皆兵の鉄則と、家族制度の本義に基く、女子に与えられました護国の基礎的務めです。此の務めさえ行わば我が国防の礎は鞏固きょうことなるのです。

と、女性の務めは将来の兵士を産み育て、留守家族を思う兵士の悩み(「後顧の憂」)の除去、家庭経済の安定にあり、「国民皆兵の鉄則」上からも女性たちにはその責任があると述べた。