※本稿は、本郷和人『秀吉は秀頼が自分の子でないと知っていたのか』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
なぜ2代将軍・秀忠は四男の存在を世間に隠したのか
徳川秀忠という将軍は、非常に優秀な息子(四男の保科正之、会津23万石を領する大名で、四代将軍家綱の補佐役として幕政の中心人物となった)を授かりながらも、存在を世間には必死に隠し続けました。これは、おそらく妻であるお江の方に対して、後ろめたい気持ちがあったためだろうと思われます。
ただ、このことについて一つ疑問が残るのです。それは、秀忠がなぜそこまで妻に対して引け目を感じ、子どもの存在を隠す必要があったのか、という点です。
一般には秀忠が恐妻家だったのは、お江の方が非常に怖い女性だったから、彼女以外の女性が生んだ子どもの存在を許さなかったのだ、というイメージが伝わっています。しかし、本当にそうだったのでしょうか?
もちろん、現代の感覚ではあってはならないことですが、当時の社会では一夫多妻はごく普通のことでした。また家の存続や繁栄を考えれば、子どもは多ければ多いほど良いという考え方が一般的だったのです。裕福な家であれば当然、跡継ぎとなる子どもが多いほうが望ましい。武士の娘として育ってきたお江の方に、その感覚がわからなかったとは思えません。
さらに、秀忠は、のちの三代将軍となる家光の前にもう一人の男子をもうけています。この子はお江が生んだ子ではありませんでしたが、自らの幼名(長丸)をつけるなどして扱っています。残念ながら、彼は早くに命を落としたのですが、もしもこの子が長生きしていたら、長子相続が慣習化されつつあった徳川幕府において、将軍職を継いでいた可能性もあったのです。
「正室のお江=恐妻」の真偽
この前提をもって、先ほど触れた保科正之の存在を、秀忠が妻から必死で隠した理由について考えてみましょう。一部には、「もしお江の方に子どもの存在が知られれば、後継者問題などを懸念され、殺されてしまうかもしれない」という極端な見方をする人もいますが、私は以前からそれには疑問を抱いています。
なぜなら、お江の方が秀忠と結婚して数年が経過した時点で、自分以外の女性が生んだ男の子が生まれたものの、これに対して彼女が激怒したという話はまったく残っていないからです。
これを考えてみると、お江の方が特別に嫉妬深い女性であったのだという評価は、彼女に対して気の毒に思えてなりません。

