徳川家康とはどんな人物だったのか。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「常に『家』の存続を優先して考えてきた。それは3代将軍に家光を選んだことからもよくわかるという――。(第2回)
※本稿は、本郷和人『秀吉は秀頼が自分の子でないと知っていたのか』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
あまりにも絵が下手だった徳川家光
武士はあくまでも「人」ではなく「家」こそが主役である。そんな徳川家の堅苦しい気風をつくり上げた人物こそ、家康その人でした。
そんな彼の意識が色濃く出ているのが「長子相続」という慣習でしょう。
(2代将軍)秀忠とお江の方の夫婦には、2人の男の子が生まれました。兄は竹千代(のちの家光)、弟が国松(のちの忠長)です。
当初、この夫妻は、弟の国松を将軍にしようと考えました。通常は兄がいる場合、兄を跡継ぎにするのが一般的ですが、彼らは弟を選ぼうと決めたのです。
この問題は、後世には「お江が弟の国松を猫可愛がりし、将軍にしたがったのだ」と伝わっています。中には、
「兄の竹千代は乳母の春日局が育て、弟の国松はお江が自ら育てたから、弟のほうが可愛かったのだろう」
などという説まで出てくる始末です。
本当にそんな感情を、お江の方が抱いていたのか。当時の身分の高い女性がお乳を与えることはまずなかったでしょうし、お江の方がそこまで公私混同をする人物とは、私には思えません。
こうした疑問を抱いていたところ、とある奇妙な史料を目にする機会があり、私は一つ合点がいきました。その史料とは、徳川家光本人の描いた絵です。それを見たとき、何より驚かされたのはその絵の下手さ加減でした。

