新一万円札の顔になった渋沢栄一は、明治・大正時代に活躍した実業家で「近代日本経済の父」と称された。当時、この渋沢栄一と並び称された関西財界の大物がいたのをご存じだろうか。歴史作家・河合敦さんの著書『侍は「幕末・明治」をどう生きたのか』(扶桑社)より、一部を紹介する――。

朝ドラのエピソードは完全なフィクション

五代友厚(才助)は、「東の渋沢、西の五代」と、渋沢栄一と並び称された大阪の大実業家である。近年は、NHK 朝の連続テレビ小説『あさが来た』の主人公・白岡あさ(モデルは広岡浅子、大阪の実業家・教育者)が尊敬する実業家として登場、人気俳優のディーン・フジオカさんが友厚を好演したことで、一気に地名度が高まった。

ただ、残念ながら『あさが来た』での白岡あさ(広岡浅子)と五代友厚の話は、完全なフィクションなのである。友厚は、浅子の夫・広岡信五郎と共同事業はおこなっているものの、浅子の実家・油小路三井家に出入りした記録はないし、浅子との直接的な交流も見いだすことはできない。互いに面識程度はあったろうが、親しく接する間柄ではなかったと思われる。

そんな五代友厚だが、戦時中まではあまり知られていなかったし、地元の大阪人からも忘れ去られていた。

「友厚の方が終始一貫してはるかに立派」

『夫婦善哉』で知られる大阪出身の作家・織田作之助は、昭和18年(1943)に刊行した『大阪の指導者』(錦城出版社)の中で、友厚について次のように述べている。

渋沢栄一の肖像
写真=Wikimedia Commons
渋沢栄一の肖像(作者不詳/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「渋澤榮一を引き合ひに出したのは、明治財界の指導者として友厚の位置が榮一と相ならんでゐるからにほかならない。相竝んでゐるばかりではなく、幕末維新における志士としての活動をいふてんより、この二人の先覚者を比較すれば、友厚の方が終始一貫してはるかに立派である。この點、友厚は明治實業家中ただ一人の人ではあるまいか。しかも、榮一は永く記憶され喧傳けんでんされ、友厚は忘れられ黙殺されている。その人も、その功績も忘れさられてゐる」

このように作之助は、五代友厚が渋沢栄一をもしのぐ大実業家だったにもかかわらず、まったく世人から忘却されている現状を嘆いている。その上で作之助は、「維新の変革期に大阪は極度に衰微した。それを救った人が五代である。彼がいなければ、大阪は凋落の一途をたどり、今日の大阪を見ることはできなかったろう」と非常に高く評価する。