NHK大河ドラマ「べらぼう」にも登場する平賀源内(演・安田顕)の最期はどのようなものだったのか。産婦人科・感染症の医師で、日本大学の早川智教授は「暗殺説、自殺説、さらには田沼意次の領内で医師として余生を過ごしたという説まであるが、破傷風により獄死したという説が有力だ」という――。
「平賀源内肖像」。原著『戯作者考補遺』(弘化二年(1845年)、木村黙老画)の模写。『国史大図鑑 第4巻』(1932年刊)より
「平賀源内肖像」。原著『戯作者考補遺』(弘化二年(1845年)、木村黙老画)の模写。『国史大図鑑 第4巻』(1932年刊)より(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

江戸の天才・平賀源内

古くは万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチや地動説のガリレオ・ガリレイ、新しくは交流を発明したニコラ・テスラやコンピュータの父アラン・チューリング、医学の世界では細菌の発見前に消毒法を提唱したイグナーツ・ゼンメルワイスなど時代に先駆けた天才は必ずしも同時代に受け入れられず、時に非業の最期を遂げることがある。

わが国では江戸中期の万能の天才――発明家、鉱山開発者、本草学者、戯作家、コピーライターの平賀源内がこれに相当するだろう。

源内は享保13年(1728年)讃岐国寒川郡志度浦に、讃岐高松藩の蔵番を務める下級武士、白石茂左衛門の子として生まれた。家伝では平賀家の先祖は武田信玄に滅ぼされた信濃平賀城主、平賀玄信であるという。幼少のころより才覚にあふれ13歳から藩医の元で本草学と儒学を学び、家督を継いだ24歳には非凡な才能を藩主に認められ1年間長崎へ遊学。本草学とオランダ語、医学、油絵などを学んだ。

帰国後に藩職を妹婿に譲って隠居。大坂、京そして江戸で本草学と儒学を学んだ。さらに幕府の有力者である田沼意次の知遇を得て、物産博覧会を開催するに至る。

源内の命を奪った「病」とは

かねてから、離藩を申し出ていた高松藩からも辞職を許可されるが、「奉公構」の処分となり他の大藩への仕官や幕府直参への道は断たれてしまった。「フリーランス」となった源内は江戸でたびたび物産会を開くほかに戯作や浄瑠璃本の執筆、川越藩の依頼で奥秩父中津川で鉱山の開発中に石綿を発見し「火浣布」として販売した。秋田でも藩主佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行うとともに秋田藩士、小田野直武に蘭画の技法を伝授した。

そして安永5年(1776年)には長崎で手に入れた壊れたオランダ製のエレキテルを修理復元、これを参考に国産エレキテルを制作した。本草学を通じて医学にも興味のあった源内はこれを電気治療に応用しようとするが、実用性には程遠く見世物でしかなかった。

3年後の安永8年(1779年)夏には橋本町の邸に移ったが、大工棟梁2人に秘密文書を盗まれたと酔って勘違いして刀を振り回して殺傷してしまった。切腹しようとして果たせず、11月21日奉行所に自首、投獄されるが取り調べ中の12月18日に破傷風により獄死した。享年52。

平賀源内の興味と活動は和洋東西あらゆる領域にわたるが、興味の赴くままにさまざまなことに手を出し、しばしば途中で放り出すこと、友人も含めてまわりの人々とのトラブル、そして彼の不遇の最期の原因ともなった勘違い刃傷事件など現代ならば発達障害の一つである注意欠如・多動症(ADHD)を疑わせるものがある。