源内の死をめぐるミステリー
では、源内はどこで破傷風に感染したのだろうか。一つは刀傷事件のときに自分自身をも傷つけて創部に感染した破傷風菌が中枢神経に至った可能性。次に入牢後取り調べ中に受傷した可能性の二つがある。
刃傷沙汰を起こしたのが安永8年(1779年)11月20日、奉行所に自首して投獄されたのが翌21日である。破傷風で亡くなったとされるのが12月18日であるから約1カ月。破傷風の潜伏期間は通常3~21日(平均14日)とされているので、発症後1週間から10日で死に至ったとすれば一応矛盾はしない。
かつては、牢獄で獄卒や牢名主などによる暴行を受けてその傷から感染したという説が唱えられていたが、浪人とはいえ仮にも武士身分で、天下の権力者である田沼意次のお気に入りとあれば、武士や僧侶を収容する牢屋である揚屋に収容されたはずで、土間で拷問や暴行を受けたとは考えにくい。
ただ、受傷と発症の経緯が何であったとしても町奉行所としては源内が江戸の有名人であり、老中田沼の関係者で事件の背景もよくわからないだけに彼の病死は事件を有耶無耶にするには好都合だったかもしれない。その結果、反田沼派による暗殺説、自殺説、さらに牢から救出され、田沼意次の領内で医師として余生を過ごしたなどさまざまな説が提唱されてきた。
親友だった杉田玄白が墓碑に刻んだ言葉
浅草総泉寺にある源内の墓から、郷里志度の自性院常楽寺に分骨するために改葬した時に遺骨が発見されたので、生存説は無理があると思われる。彼の52歳の死はあまりに早く、もう少し長生きしてほしかったという同時代や後世の人々の願いが生存説になったのであろう。
親友だった蘭方医、杉田玄白は「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常(ああ、非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)」という墓碑を刻んでいる。
身分を問わない人材登用に加えて、流通交易を重んじる重商主義、蝦夷地の開発や、蘭学をはじめとする西洋文化の移入に熱心な田沼意次のブレーンの一人だった源内の早すぎる死は、江戸中期に経済や文化が発達していた時期だけに惜しまれる。わが国への欧米からの産業革命の本格的な移入は明治になってからであるが、新しいもの好きの源内が長く生きていればもう100年早まったかもしれない。
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