先祖の血筋を重視し、武田信玄を敬愛
ところで吉保の最大のコンプレックスは、自分が成り上がり者であることだった。
そこで先祖の血筋に己の価値を見いだそうとした。じつは柳沢氏は、甲斐一条氏(甲斐源氏)の末裔・武川衆であり、祖父の信俊は武田家に仕えていた。このため吉保は武田信玄を敬愛した。
信玄の玄孫である信興が落ちぶれているのを知ると、自分の屋敷に引き取って面倒を見、元禄13年(1700)には五百石の旗本に登用、翌年、綱吉と対面させて表高家に任じてもらうほどだった。また、家臣が「武田」と名乗るのを許さず「竹田」と改めさせたり、信玄の「百三十三回忌」の法要を主催したりした。
さらに宝永4年(1707)には叶わなかったものの、朝廷に信玄の増官を働きかけている。だから綱吉から信玄ゆかりの甲府の地を与えられたときは、涙が出るほど嬉しかったに違いない。
甲府が洗練した文化都市になった功労者
とはいえ、公務多忙により甲府に赴任できなかったので、藩政はすべて家老の藪田重守にゆだねた。藪田は甲府城の山手門外に屋敷を構え、甲府城と城下町の整備、領内を検地して減税を実施するなどの善政を敷いた。用水路の整備や新甲州金の鋳造にも乗り出した。また、甲府領民の粗野な風俗を正し、屋敷の壊れた箇所を修理・修復させ、身だしなみに気をつけさせた。
こうして甲府は「棟には棟、門に門を並へ、作り並へし有り様は、是そ甲府の花盛り」(『兜嵓雑記』)と謳われるように洗練された文化都市になったのである。
なお、藩政は藪田が勝手におこなったわけではなく、吉保が江戸から細かく指示を出していた。そういった意味では、吉保の手腕であった。
さらに「完全な人間はいないと心得よ。大切なのは、見た目ではなく、その心根なのだ。とにかくえこひいきはするな」というように、吉保は家中教育も怠らなかった。