捕鯨が「海の靖国問題」になってしまった

――南極海の捕鯨まで日本文化に含まれてしまった背景にはどんな事情があるのですか?

私は、反捕鯨国の主張や、シーシェパードなどの反捕鯨団体の抗議活動に対するカウンターパンチだと考えています。

1990年代前半、南極海での商業捕鯨が再開される可能性がありました。しかしIWC(国際捕鯨委員会)で、反捕鯨国に反対され、再開は頓挫してしまいます。そんななか日本の捕鯨を正当化する言説として「捕鯨文化論」が登場しました。いろんな偶発性が重なったものと考えていますが、1980年代に危機をいだいた関係者が、広告代理店などを巻き込んで鯨食文化を喧伝していたことも少なからず影響しているはずです。

日本は、国際世論や反捕鯨陣営に対抗するために、反論しにくい「文化」を持ち出したわけです。その結果、日本各地に点在していたいくつもの小さな捕鯨文化や、太地や和田浦の歴史が覆い隠されて、ないがしろにされてしまったのではないかと感じます。

筆者撮影
EEZ内で捕獲したイワシクジラをデッキに上げる様子

たとえば、和田浦ではツチクジラという種類を捕獲しますが、ツチクジラ漁と南極海の捕鯨はなんの関連性もない。鯨肉を食べるという共通点だけで、果たして日本の捕鯨文化とひとまとめに語っていいのか。

文化と位置づけてしまうと、捕鯨がひとつの産業として社会にどれだけ資するのか、どんな問題を抱えているのか、検証する機会が奪われてしまいます。一方で捕鯨反対派は「スーパー・ホエール」だから捕鯨はダメだと譲らない。

交わることがない議論が延々と続き、一般の人は触らぬ神に祟りなし、と捕鯨に対して関心を失ってしまった。ある反捕鯨の識者が、捕鯨問題を「海の靖国」と評しました。靖国神社も、戦争責任や歴史認識の問題、諸外国への配慮などいくつもの問題が複雑に絡まり合っています。反捕鯨の識者と私とでは、捕鯨に関する考え方は異なりますが、「海の靖国」は言い得て妙だなと感じました。

捕鯨と食料安全保障

――2019年に日本はIWCを脱退し、日本のEEZ内で商業捕鯨を再開しました。令和のいま、捕鯨を続ける意味や意義をどうお考えですか?

私はこの夏にデンマークのフェロー諸島で、400年続くヒレナガゴンドウという鯨類の追い込み漁を調査してきました。日本の捕鯨同様、シーシェパードからの妨害活動に遭うなど批判にさらされています。

フェロー諸島の位置(写真=Chipmunkdavis/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

批判や反対する人の主張は、次の3つ。これは日本の捕鯨や、太地で行われる追い込み漁への批判と同じです。

1つ目が、スーパーなどには十分な食料があるのだから、クジラを捕る必要がないこと。

2つ目が、残酷で非文明的なこと。

3つ目が、食物連鎖の頂点に立つクジラには水銀が蓄積するから健康被害の恐れがあること。

反発を受けながらも、なぜ、フェロー諸島では捕鯨を続けているのか。そこには、食の主権や、食の安全保障がかかわっています。