派遣ADとしてキャリアをスタート。「いいとも」で地獄を見る

もともとテレビっ子で、松本人志著の『遺書』に感動した三谷さんは、将来お笑いやバラエティの番組制作に携わりたいという希望を持つ。しかし、就活時、激戦のキー局の入社試験は全滅。なんとか引っかかったのが、テレビ局や制作会社に人材を派遣する会社で、情報番組のアシスタントディレクター(AD)となる。

「ADはこき使われて死ぬ寸前まで働かされるイメージがありますよね? でも、ルーティンがきっちり決まっている収録番組だったので、そこまでの過酷さはありませんでした。雑用仕事をこなしつつ、先輩が撮影した画像の編集作業を覚えられたのもラッキーでしたね」

そこから確実にステップアップしていくのかと思いきや、次に配属されたのはお昼の国民的バラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系列)。そこで本当の地獄を見ることになる――。

「“ザ・AD”の世界が待ち構えていたんです。ほとんど寝る間もなく、奴隷のような仕事をし続けました。しかも生放送ですから、前の現場で覚えたことがあまり活かされません。さらには、放送中にいろんなアクシデントが起こるのですが、何かトラブルが起きれば末端のADのせいにされます。その度に精神的にも肉体的にも上から虐待されて、当時は鬱っぽかった……」

父が病気をして貧乏だった頃よりつらい毎日だったが、「忍耐力がつき、何事にも動じなくなった」という。不幸中の幸いか、配属されて約2年で番組は終了。周囲のスタッフが泣いている中、彼は心の中で「これで地獄から抜け出せる!」と、拍手喝采をしたそうだ。

その後は、また別の番組に配属され、クリエイティブな仕事が増えたので「やっと前向きに仕事ができるようになった」という。

転機はADになって7年目の頃。フリーランスのディレクターに転身したのだ。局をまたいで何本も番組をかけ持ちできたので、月収は50万円に上がり、貯金もできた。大学の奨学金を一括返済できるまでの余裕も生まれた。

しかし、そこでテレビ業界の現実に、直面することになる。

撮影=東野りか
三谷三四郎さん

「縮小再生産」のテレビ番組の世界に嫌気がさす

「たとえばA局の番組を担当して、次にB局の番組のオファーを受けたとします。企画内容はMCが変わっただけで、スタッフもほとんど同じ。要するに視聴率が良かった番組の真似をして、二番煎じの番組を作るみたいな感じです。仕事のかけ持ちができるから実入りはいいけど、そんな番組に自分の貴重な時間を切り売りしていいのかという思いが湧き上がりました。しかも地上波はスポンサーの意向があって番組作りの自由度も低い……。視聴者も馬鹿ではないので、そんな番組はすぐに淘汰されます」