一条天皇の世界につながりたい
平安時代の中期から後期には、女性にとっては、たとえ高位の人物でも漢文の教養は必須ではなくなっていた。だから、道長も彰子に漢文を教えていなかった。
しかし、一条天皇は『源氏物語』を読んで即座に、漢文で書かれた『日本書紀』の影響を読みとった。彰子は漢文を学ぶことで、一条天皇の世界につながりたいと思ったのではないだろうか。一条が寵愛した亡き定子は、母親で漢文の才があった高階貴子の影響で、漢文に通じており、定子は一条と漢文の趣味を分かち合っていたとあっては、なおさらだっただろう。
テキストに選ばれたのは、中唐の詩人、白楽天の詩文集『白氏文集』で、そのなかの「新楽府」が選ばれた。『白氏文集』は平安時代のはじめごろ日本に伝わり、わかりやすい表現と劇的な描写で、貴族必携の書となっていた。そのなかでも「新楽府」は、とくに儒教的な色彩が濃く、一条天皇の好みに合っていたという。
いうまでもなく紫式部は、中国で書かれた漢文の書物(漢籍)に精通し、漢詩人としても名高かった父、為時の教えのおかげで、漢文に関する教養と才能は群を抜いていた。とはいえ、宮中ではそうした能力を見せると妬まれるので、漢文などまったく読めないように振舞っていたのだが、彰子には自身の才をもとに講義をはじめたのである。周囲に知られないようにこっそりと、ではあったが。
紫式部との信頼関係
『紫式部日記』にはこんな記述がある。「宮の御前も『いとうちとけては見えまじとなむ思ひしかど、人よりけにむつまじうなりにたるこそ』と、のたまはする折々侍り〔中宮様も『あなた(註・紫式部)とは非常に気を許して付き合えるとは思わなかったけど、ほかの女房たちよりずっと親しくなってしまいました』と、おっしゃったこともありました〕」。
こうして彰子は紫式部と信頼関係で結ばれたうえで、講義を受け続けた。それは『紫式部日記』によれば、2年も続いている。
人目を避けて行っていた講義だったが、やがて一条天皇や道長の知るところとなり、道長は書に長けた人物に書かせた漢文の書物を、彰子のもとに届けたりしている。道長としては、漢文が彰子と一条天皇を近づけるかすがいになるなら、よろこんで後押ししたということだろう。
一条天皇が彰子のもとへ渡って懐妊させたことには、決死の御嶽詣でまで行って懐妊を願う道長の要求に応えたという面があるだろう。しかし、それだけなら、敦成親王が生まれた時点で、一条天皇は責任を果たしたことにもなるが、彰子は敦成親王を出産した翌寛弘6年(1009)11月25日にも、敦良親王(のちの後朱雀親王)を出産している。
やはり漢文を学んで一条天皇に近づきたい、という彰子の思いが、一条に受け入れられた面があるのではないか。そうであるなら、それは紫式部の功績でもある。