道長も戸惑うほどの精神的成長
道長は彰子の学びを後押しし、彰子は「新楽府」をとおして儒教的な政治思想を学び、一条天皇の心に近づく努力をしながら、精神的にも成長していったと思われる。だが、そのことは道長にとっては両刃の剣でもあった。
彰子は亡き定子が産んだ一条天皇の第一皇子の敦康親王を、8年にわたって親代わりとして育ててきた。その敦康の即位を一条天皇は願っていたが、じつは彰子も、第二皇子の敦成親王を出産したのちも、敦康に先に即位してほしいと望んでいた。
敦成がどうでもよかったのではなく、敦康が先に天皇になっても、遅れて敦成が天皇になる可能性は十分にあった。だから『栄花物語』によれば、後継選びの際、彰子は道長に何度も、敦康を東宮にするように申し入れたという。だが、聞き入れられなかった。すでに40代の道長は、元気なうちに一刻も早く天皇の外祖父になりたかったからである。
いずれにせよ、引っ込み思案で自己主張ができなかった彰子が、父に抵抗するほど強く成長した。そして、道長の死後も、「国母」として積極的に政治に口を出し、長く影響力を維持して87歳まで生きた。
その原点は、紫式部との学びにあったと思われる。