駄々をこねる夫は呼び出して叱りとばす
縁切を求めて東慶寺に駆け込んだ女は、境内の寺役人から身元を調べられ、寺の周辺の御用宿へ預けられる。その後、寺役人は妻の実家がある村の名主に連絡し、実家関係者を東慶寺に集め、「夫方と交渉して離縁できるようにしてあげなさい」と協議離婚をすすめる。
これを内済離縁と呼ぶが、たいていの夫は、妻の実家から「うちの娘が東慶寺に駆け込んだ」と聞かされた時点で、素直に離縁状を渡した。
だから内済離縁のために妻の実家関係者が東慶寺に来た時点で、夫の離縁状を携えているケースが多く、そのまま女性は寺から実家の関係者に引き渡された。
でも中には駄々をこねる夫もいる。すると東慶寺では、仲人や夫本人を呼び出した。
そして彼らがやってくると寺役人は叱りとばし、事実を確認したうえで離縁状を書かせた。離縁状は2枚つくらせ、1枚は妻に渡し、もう1枚は東慶寺で保管した。ただ、中には妻に夫が陳謝し、復縁することもあった。
一方、呼び出してもやって来ない、叱られても離婚に応じない強者もいる。
すると東慶寺では、寺法離縁の段階に入る。「近く寺役人が出張し、離婚についての裁判に出向く」と記された出役達書を夫の住む村の名主(庄屋)に送りつけるのだ。
すると、さすがに夫やその家族も恐れをなし、夫が鎌倉に出向いて離縁状を渡すことになる。
「寺法離縁」まで粘る夫の浅ましい狙い
しかし、それでもまれに離婚に応じない者がいる。そうなると、寺役人は「寺法書」を持って村の名主のもとに出向く。寺法書には「女が別れたがっているのに、離縁しないのはなぜだ。今後は女を東慶寺で預かる。もう、お前の女房ではない」と書かれている。つまり、容赦のない通告を突きつけるのだ。
ただ、納得できないときは、夫は「違背書」をしたため、幕府の寺社奉行へ提出する権利がある。でも、奉行所に呼び出された夫は、寺社奉行から「このままでは仮牢入りだ」と脅され、最終的には詫び状を書かされるのである。どうせこうなるなら、なぜおとなしく離縁状を出さないのか? そう疑問に思うだろう。
じつはわけがある。
「寺法離縁」に発展した場合、女は1年間、寺での厳しい生活を余儀なくされる決まりなのだ。しかも、脱走すれば髪を剃られて丸裸で追放され、戸籍まで抜かれてしまう。つまり、寺法離縁まで引っ張るのは、逃げた女房への腹いせというわけだ。
東慶寺へ駆け込んだ女性のその後は、記録に残っていない。余程の事情があったのだろうから、みんな幸福な人生を送ったと思いたい。
なお、この縁切り制度は、1873年に女性の離婚請求権が認められたことで終わりを迎えた。