考えてみると、日本は昔から農耕社会で灌漑など共同作業をするのに長けており、協調性が尊重されてきた。その半面、皆が持つ個性を尊重せず、時には個性を抑圧することもあった。農耕社会では昔の記憶が役に立ったので、年寄りや物知りが「先生」として大事にされた。

しかし現代では、黒川氏がChatGPTを例にあげて指摘するように、百科辞書的知識の持ち主の有用性は格段に落ちている。現在、研究者に必要なのは、人を真似することではなく、人類のためになる新しい知識や新しい技術をいかにして見つけ出し、いかに現実に役立てるかを考えることだ。だからこそ、研究者は「なぜか」を問い続け、まだ知られていないアイデアを見つける努力をしなければならない。

これは自然科学に限らない。社会科学も、人間や各国の利害関係が生み出す社会的問題を「どうしたら解決できるか」を考えなければならない。研究者の醍醐味は、「世界で何が知られているかを知ること」ではなく、理想としては、「世界でまだ知られていない考え方をどう発見するか」にあるのである。

そのためには、若者はいつでも世界中から学べる環境が必要だ。留学では、外国から知識を輸入するだけでなく、世界の友人とともに新しい知識に挑戦するのが重要だ。しかし現在、円安のため留学が困難になっているのは大きな問題であろう。

さて、学者志望の学生や院生には、ただ人の真似をするのではなく、自分も世界に新しい知識をもたらす担い手になるのだという気概を持ってほしい。私がイェール大学で博士論文作成の指導を受けた際、「この主題で先行研究を調べてみます」と言うと、ジェームズ・トービン氏は「先に人の研究を読むと、君の発想が止まってしまうので、まず自分で考えなさい」と答えた。日本の鋭気ある研究者にも伝えたい言葉である。

集団への同調より個性の発揮を

藤崎一郎元駐米大使は、中曽根平和研究所のコラムで世界の外交問題についての健筆をふるっているが、教育問題に関連した『まだ間に合う元駐米大使の置き土産』(講談社現代新書)も非常に有益なメッセージを伝えている。日本の知識偏重の教育を受けた優れた学生が、いわゆる年功序列、会社一辺倒の日本的な組織に入った後、自分の能力をどう生かしていくのかについて貴重なヒントを与えてくれる。

まずは「自分の尺度で判断し、想像力と創造力を養い」「ほれた会社、ほれた職業を選べ」というアドバイスで、自分の能力を最大限発揮するための第一の条件だ。次に、個性を発揮しようとすると、伝統的な職場では抵抗にあうこともあるが、個性を抑制し集団に同調するように教育されてきた人々に対しても、組織の中で粘り強く工夫を続ければ、自分のためにも社会のためになる有益な活動に「まだ間に合う」というのが、藤崎氏の伝えたいことであろう。

この3つの論稿を通じ、日本社会で個性を生かし、未来を変えていく可能性について、真剣に考えている人がいるのは心強いと感じた。

(撮影=石橋素幸 写真=時事通信フォト)
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