日テレが潰れるまでやめられない運命を背負っている

「この企画は一回やったら日テレが潰れるまで何十年も何百年もやめられない。本来、チャリティーとはそういうもんだ。もし途中でやめたら世間から『なぜ、日テレはやめたんだ』と猛攻撃にあうのは間違いない。募金もおそらくかなり集まるからな。日テレが途中でやめれば社会的責任を途中で放棄したとみなされる」(※吉川圭三「メディア都市伝説」)

そう、「24時間テレビ」は最初から簡単にはやめられない運命を背負って生まれたのだ。

第1回の新聞ラテ欄には「ねたきり老人におふろを! 身障児にバスを!」という直接的なスローガンが掲げられた。萩本欽一、大竹しのぶをチャリティー・パーソナリティに据えた前代未聞の番組は人々の熱狂を生み、目標額の約3倍にあたる11億9000万円もの募金が集まった。高視聴率も記録し大成功。生放送中に社長自らが番組継続を宣言するほどだった。

「テレビにできることは何か」を視聴者に訴え続けた

ちょうどこの年に生まれた僕にとって、子供の頃、つまり80年代の「24時間テレビ」は、硬派で真面目なイメージで、“手塚治虫の長編アニメを見るようなもの”だった。しかし、その前後には貧困・飢餓に苦しむアフリカの子供たちの映像が流れる。それはトラウマ級に衝撃だった。

なんとかしなければ、と子供心に思うものの、できることは小銭をかき集めて募金するくらいしかない。思えば、学校などで半ば強制的におこなわれるものを除いて、自発的にした初めてのチャリティー体験だったかもしれない。

まさに都築の狙いはそこにあった。「一体テレビにできることは何でしょう」という問いかけで始まったこの番組は「1つには生放送であること、もう1つは、テレビがメッセージを持ったということです。そのメッセージがお互いに無縁な人々の心を1つにし、行動を起こす契機となり、社会を動かしていくことを証明」(日本テレビ社史『テレビ夢50年』)しようとしたのだ。

都築は多くの人に問題を知ってもらうこと=「コンシャスネス・レイジング」こそが何より大事だったと強調している(「文春オンライン」2019年11月24日)。何しろ当時「ねたきり老人」という言葉さえ知らない人が多く、社会問題化していなかったという。

そのためには筆者のイメージにあった真面目一辺倒では誰も見てはくれない。その入口のひとつがアニメだったのだろうし、ロックコンサート企画などもあった。さらに深夜には、今では考えられないような過激なバラエティ企画もおこなわれていた。