「硬派なVTR」ばかりで視聴率は低迷

たとえば、1981年の深夜企画は「タモリの素晴らしき今夜は最低の仲間達」。タモリと赤塚不二夫がロウソクを垂らし合うSMショーや、背の低いタモリと赤塚が猫背になり小さいレスラーに扮し、180cm以上あった景山民夫がレフリーをするミゼット(小人)プロレスのパロディなどをおこなった。

「タモリさんって権威主義に対してものすごい嫌悪感を持っていて、初期の芸風なんて、全部そんなものだったでしょう。(略)僕は『24時間テレビ』でチャリティーイコール権威というような図式を徹底的に破壊したかったんだけれども、その思いをタモリさんも共通して持ってたんです」(同)

初期の「24時間テレビ」は硬軟入り乱れた番組だったのだ。そう思うと単に「世界の福祉特集」の拡大版というよりは、「11PM」自体の拡大版と考えたほうがしっくりくるのではないか。

しかし、回を追うごとに、硬派なVTRの割合が多くなっていった。マンネリ化した番組は視聴率が低迷。1桁台にまで沈んでいた。

ダウンタウンの起用と「原点回帰」で復活を遂げた

そんな状況に危機感を抱いて変革したのが1992年の「24時間テレビ」だった。

当時の若手社員や、日本テレビでヒット番組を連発していたハウフルスの菅原正豊(ちなみに彼は「11PM」のADとしてキャリアをスタートした)に舵取りを任せると、彼らはなんとチャリティー・パーソナリティに、チャリティーとは真逆のイメージのダウンタウンを起用した。

さらに「愛の歌声は地球を救う」をキャッチコピーに、「武道館をカラオケの殿堂にしよう」とぶちあげ、24時間通した音楽企画を展開。FAXで募集した視聴者からのメッセージをもとに番組中に曲をつくるという試みまでおこなった。このときできた曲が「サライ」である。

「24時間マラソン」が生まれたのもこの年。当時、吉本新喜劇ブームで人気を博した間寛平が、その少し前から「スパルタスロン」に挑戦していたことから、マネージャーの提案で始まった。

マラソン
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いずれも通し企画。その頃の「24時間テレビ」は、1~2時間程度のVTRが24時間にわたって流れるような番組になってしまっていた。しかし第1回は、実に約4分の1が生放送だった。つまり、2時間×12本のような番組ではなく、24時間×1本の番組に立ち返る“原点回帰”をおこなったのだ。

この大リニューアルが功を奏し、当時の歴代最高視聴率17.2%を記録した。前年の6.6%という歴代最低記録から一転し、大きなターニングポイントとなった。

なお、この年、間寛平は無念のリタイヤ。翌年、リベンジを果たす。これにより「24時間マラソン」は恒例化していく。そして現在まで続く「歌」と「マラソン」を軸にするフォーマットができあがったのだ。