話を聞くのが得意なお金持ちの息子
1949年、野沢さんは、群馬県の太田市に生まれた。父、母、弟、妹の5人家族の長男で、店の2階に住んでいた。創業者である祖父母も一緒に働き、店を中心に一族の生活が回っていた。戦後の復興に向けて商売は大繁盛。その活気をよく覚えている。
「幼い頃は、爺さまが切り盛りしていてよ。親父と叔父が右腕として支えていた。市役所、消防署、学校からひっきりなしに注文が入っていて、出前を運んでいたんだ。みんな出たり入ったりしていてさ。10人くらいが働いていた。そのうち3人は店の2階に住み込みだったよ」
家業を手伝うのが当たり前の時代。武さんは3代目として店を継ぐことを期待されていたが、ほとんど厨房には立たなかった。かわりに、実家から歩いて3分の場所にある祖父母の家に部屋を与えられ、大事な箱入り息子として育てられた。「お小遣いを好きなだけもらえたし、家庭教師もいた。ぼんぼんだったんだよ(笑)」と振り返る。
お店では大人のやんちゃな武勇伝を聞く機会も多かった。学校で知ることのできない体験談は新しい世界をのぞくような刺激があった。
「これからの時代、飲食店の後継も大学を卒業する必要がある」
もの心ついた頃に、父から進路についてのアドバイスをもらった。高校に進学すると、勉強にも注力。同級生がほとんど就職するなか、千葉商科大学の商学部へ進学した。
「大学に合格した時は親父もお袋も喜んでくれたよ。ジーンときたな。しかも大学には、これまでに会ったことのない人がたくさんいたんだ。北海道から上京した人、経営者の息子、東京に住むお坊ちゃん……。世界が広がったよ」
店の後継者として修業に明け暮れるが…
大学を卒業した22歳、地元へ戻った武さんは、父・秀五郎さんのもとで接客や料理の基礎を学び始める。修行を始めた1年後には結婚。後継者としての意識は高まった。
しかし、その日々はすぐに終わりを告げる。当時の野沢屋では、夕方の仕事に入る前に、アルバイトや住み込みで働くスタッフたちと一緒にご飯を食べていた。1階の座敷に全員がそろう、落ち着いて話をできる唯一の時間だ。意を決して、高校生のころから気がかりだったことを父に告げた。
「親父さ、お袋を悲しませるなよ!」
言及したのは、女性関係のことだった。地元の名士だった父親は豪放な性格でもあった。詳細の記述は控えるが、母が隠れて涙を流していると察していた武さんは心を痛めていた。「俺が言わないといけないよな」と思い、タイミングを見計らっていたのだ。
それが失敗に終わる。数秒の沈黙の後に、無口な父が怒りをあらわにした。
「10年早い!」