東京・南青山にある行列の絶えない中華風家庭料理店「ふーみん」。8年前、70歳で店の経営から離れた斉風瑞さんは、混乱の終戦翌年に東京で生まれた。統治時代の台湾で教育を受けた父母は、日本に強い憧れをもって来日した。誰もが生きのびるのが困難な状況下、異国で懸命に働き、自分たちを飢えさせずに育ててくれた母の姿を見て、小学校6年生で「私は『こういうお店を持っています』といえる仕事をみつけよう」と心に決めた――。

名だたる常連客が「ほっとする」という店

ほっとする味――。

たくさんの著名なクリエイターたちが、こう評する料理を作る人がいる。1971年のオープン以来、45年間の長きにわたって中華風家庭料理の店、「ふーみん」を切り盛りしてきた斉風瑞さいふうみさんである。

今年5月31日、斉さんの半生を描いたドキュメンタリー映画、『キッチンから花束を』(菊池久志監督)が公開された。映画にはふーみんの常連客が何人も登場してコメントを寄せているのだが、その顔ぶれがすごい。

料理愛好家で和田誠の妻・平野レミ、絵本作家の五味太郎、服飾評論家の石津祥介(VANの創業者、石津謙介の長男)、B.M.FT(飲食関係コンサルタント)ディレクターの渋沢文明、DEE’S HALL元オーナーの土器典美(アンティークブームの火付け役)、岡本太郎美術館にカフェをオープンし、現在は南青山骨董通りでパンケーキの名店APOCを営む大川雅子……。

ふーみんの常連客には、こうした一流のクリエイターも含めて、南青山界隈で仕事をし、生活をしてきた“地元民”が多い。

彼らはいくつもの洒落た飲食店がひしめき合う南青山の街の中から、生け花の小原流会館の地階にある、決して目立つとは言い難いふーみんを探し出し、長年通いつめ、そして多少のニュアンスの違いはあるものの、ほぼ一様に「ほっとする」と口にするのである。

優しい味だから、ホスピタリティーがあるから、美味し過ぎないから……。常連客たちはそれぞれにほっとする理由を挙げるのだが、どこか腑に落ち切らないものがあって、もどかしさが残る。

なぜ人は、斉さんの料理を食べるとほっとするのか?

斉さんの50年を超える料理人人生を俯瞰したら、この謎が解けるだろうか。

斉風瑞さん
撮影=工藤睦子
東京・南青山にある大行列店「ふーみん」を70歳で卒業し、現在は自宅で1日1組のレストラン「斉」を営む斉風瑞さん

賭け事も好きだが、家事が上手だった父

1946年、終戦の翌年に、斉さんは台湾人の両親のもと東京の中野区で生まれている。中野に関する記憶はほとんどなく、記憶があるのは小学生の大半を過ごした新宿時代から。斉さんが小学生の頃は必ずしも裕福な暮らしではなかったが、その原因はどうやら父親にあったようだ。

【斉】父は何をやってもうまく行かない人でしたけれど、とても綺麗好きで家事が得意でした。当時としては珍しかったと思いますが、いま風に言えば育メンの専業主夫。父が家にいたおかげで、母は思い切り外で仕事をできたという面もありますね。

父は賭け事も好きで、家に帰ってこないなんてこともありました。小さいとき競馬場に連れて行かれて、すっからかんになって、先に家に帰されたこともありましたよ。たぶん、子どもを一緒に連れていけば母が安心すると思ったのでしょうが、父はどうやって帰ってきたんでしょうね(笑)。

祖父が出張料理人だったこともあって、父親には祖父譲りの料理の才能があった。

【斉】私は4人姉妹の長女なんだけれど、父は料理がとても上手で、家族みんなに手料理をふるまってくれました。基本は台湾の家庭料理ですが、エビフライなんかも作ってくれましたよ。姉妹それぞれに思い出が違って、父の作るチャーハンがおいしかった、いや、スープがおいしかったって4人が4人ともみんな違うの。

母は、父の料理上手は「自分だけ外で美味しいものを食べているからだ」なんてよく言っていました。手料理を食べさせてはくれたけれど、父から愛情を感じたことはあまりなかったですね。