パリ万博で紹介された「アメリカ」

ところで、このパリ万博のアメリカ館では、バッファロー・ビル一座による「ワイルド・ウェスト・ショー」が上演されました。

バッファロー・ビル(本名ウィリアム・フレデリック・コーディ)は、実際に騎兵隊斥候せっこうなどもやったことのあるアメリカ西部の開拓者です。1883年から、カウボーイの曲馬きょくばやロデオ、当時はインディアンと呼ばれたアメリカ先住民と騎兵隊の戦いなどを見せる一座の座長として人気を博していました。

そこで上演されたのは決して「昔話」ではありません。白人入植者と先住民の戦いは1890年頃まで続いたので、1889年のパリ万博の時点では「いまのアメリカ」です。

現在は「先住民の土地を無理やり奪った白人はひどい」と思う人のほうが多いでしょうが、当時は「インディアン」をやっつける白人がヒーロー扱いされていました(僕の子ども時代でも米国のテレビでは西部劇が大人気でした)。

このパリ万博では、アフリカの先住民の暮らしぶりを見世物にする悪名高き「人間動物園」も設置されていましたから、当時の人種差別は現在とは比較にならないほどひどいものだったわけです。

ともあれ、19世紀後半の米国はまだそんな西部開拓時代でした。13歳で家族といっしょに渡米した僕が大学卒業まで過ごしたカリフォルニアが開拓されたのも、その頃です。

気球から見たフランス、パリの空撮(写真=Alphonse Liébert/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ゴールドラッシュによるサンフランシスコの発展

ゴールドラッシュ(1848~1855)の前までのカリフォルニアは、荒れ果てた無法地帯でした。サンフランシスコの人口は、1846年の時点で200人程度。しかしゴールドラッシュによって「憧れの地」となり、1869年には最初のアメリカ大陸横断鉄道が開通したこともあって、1870年の時点ではそれが15万人にまで増えました。

人口が急増すれば、都市計画も進みます。ゴールドラッシュ前は東側のダウンタウンにしか人が住んでいませんでしたが、1860年代には市街地が西へ拡大。そこで、人々が集う大規模な公園として1871年につくられたのが、ゴールデン・ゲート・パークです。

当初、この公園の設計はニューヨークのセントラル・パークを手がけたフレデリック・ロー・オルムステッドに依頼されました。

公園の予定地は、太平洋沿岸のビーチフロントから市街地方向へのびる長方形の敷地で砂丘のような荒れ地。木を生い茂らせるのも大変だという環境でした。

そこで、オルムステッドは、カリフォルニアの土着植物を主体としたデザインを提案しましたが、市議会では反対の意見が過半数を超え、結局提案は却下されてしまいます。