謙虚であろうとしすぎていつの間にか弱気になっていた
豊さんが長らく戦線離脱していたにもかかわらず、関西リーディングのトップに福永祐一の名前がないことに、友人としてもどかしさを感じていたようだった。ちなみに、その時点で関西リーディングのトップに立っていたのは岩田(康誠)くん。自分は確か、僅差の2位だったと思う。
その日は、「武豊がいないときに、お前が一番じゃなくてどうするんだよ!」と何度も何度も発破をかけられた。そこで気づいたのは、豊さん不在の中、自分が2位であることに何の疑いも持っていなかったこと。いつの間にか牙を抜かれていることに気づき、ハッとしたのだ。
自分は父親の名前と北橋(修二)先生、瀬戸口(勉)先生のバックアップにより、人よりもだいぶ前に設定されたスタート地点からジョッキー人生を歩み始めた。
そんな自分を俯瞰で見ていたから、「天狗になってはいけない」「父親と二人の先生の顔に泥を塗ってはいけない」という思いが強く、誰に対しても謙虚であることを自分に課してきたようなところがあった。でも考えてみれば、本来“謙虚な姿勢”とは周りが求めるもの。当時の自分も、周りのそんな空気に気圧されて、いつしか謙虚な気持ちが弱気に変わり、弱気が自信を失わせていたように思う。
その結果、「リーディングなんて……」と、気づけばハナからあきらめているような状態に。そうはっきりと口にしたことはなかったはずだが、海老蔵と英明は、そんな自分を見抜いていたのだろう。
「自分なら一番になれると思い込め」
彼らはその日、こうも言った。
「自分ならやれる、一番になれると思い込め。自分がどうなりたいのかをちゃんと思い描いて、そうなれると思い込むことで人間は変われるんだ」
彼らはいつだって自信にあふれ、強気な姿勢を崩さずに突き進んでいくタイプで、自分とは正反対だと感じていた。しかし、そんな彼らも時には弱気を押し込め、そうやって自分を鼓舞しながら歩んできたのかもしれない。
あの日を境に自分は変わった。というか、あえてビッグマウスを演じることにしたのだ。北橋先生には散々、「祐一は性格が丸過ぎる」と言われたが、その指摘どおり、元来の自分は良くも悪くも棘のないタイプ。そんな自分を変えるには、心を決めて“演じる”必要があった。
取材でも「今年はリーディングを獲る」とはっきりと口に出し、自分自身にプレッシャーをかけることにした。取材に来た記者さんに「どうしたんですか? 福永さん、なんかいつもと雰囲気が違いますね」と言われたりしたが、おそらく発言だけではなく、表情も口調もそれまでとは違ったのだと思う。
そうした強気な発言を目にしたり、耳にしたりした関係者やファンの中には、「福永ごときがデカい口を叩いて」と思った人もたくさんいただろう。あの時期をきっかけに、“アンチ福永”になった競馬ファンも少なくないと思う。
でも、それも織り込み済みの方向転換であり、多少の向かい風を感じたところで、あのときの自分に迷いはなかった。