男性しか騎手になることが許されなかった昭和時代に、女性であることを隠して「世界初の女性騎手」になった日本人がいた。歴史小説家の黒澤はゆまさんの著書『世界史の中のヤバい女たち』(新潮新書)から、斉藤澄子さんのエピソードを紹介しよう――。
どんな暴れ馬も乗りこなす「馬っこ」少女
1913年(大正2年)1月、岩手県厨川村(現在の盛岡市)の農家に一人の女の子が生まれました。
名を斉藤澄子といいます。
南部地方でよく見られる母屋と馬屋が一つとなった曲り屋で、人と馬が抱き合うようにして暮らしている一家でした。寝藁をおくるみに、馬の吐息を子守歌代わりに聞いて育った澄子は、自然と「馬っこ」大好きな少女になりました。
妹スケによると、彼女はもう3歳の時には馬に乗っていたといいます。
そんな幼い子がどうやっていたかというと、澄子が「乗るよ」と声をかけると、馬の方から首を下げてきたのだそうです。小さな澄子は、鼻面からヨイショヨイショとよじ登り、それから、背中の方へ器用に「チャッ」と回るのでした。
大人が5人かかっても馴らせない暴れ馬も、澄子が乗ると嘘のようにおとなしくなりました。
「すみは馬の生まれ変わりだ、『馬がすみかすみが馬か』って言われてたんでがんす。まるで馬っこと話ができるみてえでした」
「年頃になって結婚」で自身の才能を終わらせなかった
細貝さやか『斉藤すみの孤独な戦い』には、妹スケが幼少期の姉のことをそんな風に語っていたことが記されています。こと馬に関してなら、彼女は大人の男にも負けない天才少女だったのです。
澄子の馬好きは、馬喰でもあった父の存在も大きく影響していましたが、その父は彼女が14歳の時、肺病で亡くなります。母も体が弱く、澄子は学校をやめざるを得なくなりました。
当時、こうした境遇の女の子は、どこか奉公にやられ、年頃になったら適当な結婚相手をあてがわれ、一丁上がりと片付けられるのがお定まりのコースでした。しかし、澄子は「馬がすみかすみが馬か」と謳われた自身の天稟を、そんなことで台無しにしようとはしませんでした。