抜群の成績をおさめるも「風紀上の問題」で不合格に

澄子にとっては無念の雌伏の時期でしたが、狭い村に住む子供にとっては、外の新鮮な空気をまとい、今とは比べものにならないくらい強いジェンダー規範からも自由に振る舞う澄子は、颯爽と見えたのでしょう。

しかし、発展を続ける競馬界、何より澄子のなかの馬に対する愛情が、彼女を郷里の小さな世界にとどめておくのを許しませんでした。

折しも、1932年4月24日、目黒競馬場で第1回東京優駿大競走、いわゆるダービーが初めて開催されます。1万人の大観衆を迎えての熱い競走の様子を、ラジオで聞いた澄子の胸のなかでまた熱い火が点りました。

澄子は今度は東京競馬場の名調教師・谷栄次郎に弟子入りします。谷も澄子の才能に惚れ込み、熱を入れて指導しました。

その甲斐もあって、澄子の腕はめきめき上達。

1934年、21歳のときには、騎手試験に初めてチャレンジ出来ることになります。

しかし、学科も実技試験も抜群の成績をおさめたのにもかかわらず、結果は不合格。帝国競馬協会が伝えた理由は「風紀上の問題を起こす恐れがある」という理不尽なものでした。

布団をかぶって悔し泣きした澄子は、そんな疑いももたれないくらい男っぽくなろうと、この頃から、キセルで刻み煙草を喫むようになります。

男装で臨んだ騎手試験でついに合格

翌35年、師匠の谷は澄子を連れて、京都競馬場に厩舎を移しました。より進歩的という評判のあった京都競馬場なら、騎手試験合格の目もあると期待してのことです。

京都に移ってからも、澄子は男装を続けながら研鑽を重ねました。

その姿は痛々しいようでもあり、この頃の澄子と付き合いのあった元調教師はこんな風に証言しています。

「私たち関係者は、すみちゃんが女だと知っていた。それでも彼女は、声も仕草も服装も、男になり切っていたね」(島田明宏『伝説の名ジョッキー』)

しかし、京都競馬場は東京と比べると確かに風通しがよく、幹部のなかにも澄子を応援するものが出ました。

そして、36年3月、23歳の春、ついに澄子は騎手試験に合格します。

日本初どころか世界初の女性騎手誕生に、マスコミは沸き立ち、澄子は一躍話題の人となりました。

新聞に掲載された写真が残っていますが、ハンチング帽を被り、背広にネクタイと男装した澄子は馬の手綱を握り、緊張から唇を初々しくキュッと結んでいます。

「ただ子供の時から好きなことが仕事となつたので辛いとはおもひません。男の人に伍して立派にやつていけるかどうか、兎に角ベストをつくします」

記事のなかでそう語った澄子。彼女には輝かしい未来が待っているはずでした。