男であるための煙草が澄子の体を蝕んだ
想像するに、傷心と挫折に打ちのめされていたにもかかわらず、澄子は、新潟の低い空の下に住む少女にとってまばゆい存在だったのではないでしょうか。向学心に富もうが、利発だろうが、いずれ女という限界にぶち当たらざるを得ない時代に、ハンチング帽に背広にネクタイ、煙草をくゆらせながら、荒っぽい競馬界で曲がりなりにも男と伍して生き抜いている澄子は、自由の象徴だったのかもしれません。
芳江のことがきっかけで馬を捨てたというのも嘘で、澄子が終生、騎手としてターフを駆ける夢を捨てていなかったというのは、芳江をはじめとする関係者が口をそろえて、証言していることです。
ただ、芳江との交際を師匠の谷は許すことが出来なかったようで、澄子は京都競馬場を去りました。そして、芳江とともに千葉に移り、今度は中山競馬場で働きます。
しかし、男装しながらの厩舎での過酷な労働、またより男に近づこうと始めた喫煙の悪習は、澄子の体を確実に蝕んでいました。
16歳からさらしで潰されつづけた胸
42年8月22日、父と同じ肺病に冒された澄子は芳江に看取られながら、29歳の短い生涯を終えました。
吉永みち子氏の『繋がれた夢』によると、この時、同輩の2人の厩務員が病室に駆けつけたのですが、ちょうど湯灌を終え、着物を替えさせる最中だったといいます。
2人の目に、騎手修業をはじめた16の時から、さらしで潰されつづけてきてなお、白く豊かな胸が飛び込みました。無性に悲しくなった厩務員たちは病室を飛び出すと、「斉藤は本当に女だったんだなあ」「やっぱり斉藤は女だったんだ」と泣きながら、厩まで走って帰ったのだそうです。
これが日本人初の女性騎手、斉藤澄子の生涯です。