「女性騎手のレース出場はまかりならぬ」

運命が暗転したのは、東京の新聞に「女騎手出現」と見出しがつけられた風刺画が出たことです。「追込みトタンに猛烈なウインク……」というキャプションとともに、ウィンクする澄子と、落馬する男性騎手という戯画が描かれていました。

こうした揶揄をされないようにと、競馬界の門をくぐって7年男装を続けた果てに、受けた愚弄でした。この記事が影響してか、帝国競馬協会から、間近に控えた澄子のデビュー戦に待ったがかかります。

そして、ほどなく農林省から正式な通達が届きました。

「女性騎手のレース出場はまかりならぬ」

ある新聞は、この出来事を、「男女騎手間の風紀問題や恋と勝敗のデリケートな関係等を考慮した結果」と報じました。

デビュー戦を勝利で飾らせてやりたい親心から、調子のよい馬の順番が来るまで、初陣を日延べさせていた谷は、

「あの時、どんな馬でもいいから一度レースに乗せてやればよかったなあと、つくづく思います。一生の思いを満たせてやれたのに……」

と、終生悔やんだといいます。(鵜飼正英『競馬紳士録』)

ただ、同年、全国11の競馬倶楽部と帝国競馬協会が統合して、日本競馬会が新しく設立されました。

旧弊も一掃され、女性騎手のレース出場を認めてくれるかもしれないと、澄子と谷は一縷の望みをかけていたのですが、翌37年、新しい組織が出した新しい規定には以下の一文がありました。

「騎手にありては満19歳以上の男子にして、義務教育を修了したる者とすることを要す」

出張先の新潟で出会った飯屋の芳江

失意の澄子ですが、谷とともに出張した新潟で一つの出会いをします。

新潟競馬場側の飯屋で働いていた芳江という16歳の少女です。2人は意気投合し、一緒に暮らしたいと望むようになりました。

寺山修司の『競馬放浪記』では、2人の関係を「出来てしまった」と記しており、他にもドロドロの同性愛に陥って馬を捨て駆け落ちした、とゴシップ的に書いているものもあったようです。

しかし、実際に取材で芳江と会った吉永みち子氏は、その際の印象から、当時の彼女のことを「向学心に富んだ利発な少女」と表現しており、ドロドロなどと、揶揄される筋合いのものではなかったようです。