彰子の産んだ後一条天皇をやり込めた伊勢斎宮斎王
一方、同時代の伊勢斎宮には、娟子の姉の斎宮良子内親王がいた。良子にはこの種のスキャンダルはないが、伊勢外宮の倒壊や内裏の火災などの大事件についての夢告を父天皇に報告して、事態の鎮静を図っている。天皇を補佐しようとした当子内親王と良子内親王の間の斎王が、長元の託宣、つまり長元4年(1032)に内宮月次祭の場で、内宮別宮の荒祭宮の託宣と称して、時の後一条天皇を神宮軽視と糾弾し、斎宮頭藤原相通夫妻を流罪に追い込むという荒事をやってのけた嫥子女王である。その背景には、成人となった後一条を押さえ込もうとした関白藤原頼通(道長の長男)やその妻、隆姫女王(嫥子女王の姉)の意図があったようだ。
こうした斎王たちの周囲にも、記録にこそ残らないが紫式部や清少納言のような女房たちが付いていたのであり、斎宮や斎院では内侍や宣旨などの女官身分を持っていたりする。たとえば良子内親王のために開かれた「斎宮貝合」などは女官のサポートなしではなしえなかったイベントである。
藤原氏の摂関政治をぶっ潰し、院政への道を拓いた内親王
そして、良子・娟子の母の禎子内親王は、三条天皇と藤原道長の娘姸子の娘でありながら、後朱雀天皇亡き後、息子の後三条天皇を皇位に就けるため、伯父の関白藤原頼通と水面下で激しく対立し、ついに摂関家と直接の血縁関係を持たない後三条天皇を即位させることに成功する。つまり禎子内親王は「摂関政治をぶっ潰し、院政への道を拓いた功労者」と評価できる存在で、女性たちのサロンは宮廷の男性社会とはいささか異なる価値観で動いていたことをうかがわせる。
こうしたサロンの閉鎖性と団結性が次の時代、つまり平安後期には、皇后や中宮ではない「女院」という形で現れてくる。郁芳門院(白河皇女媞子内親王、元斎宮)、上西門院(鳥羽皇女統子内親王、元斎院)、八条院(鳥羽皇女暲子内親王)、殷富門院(後白河皇女亮子内親王、元斎宮)など、未婚の皇族女性たちで、彼女らは待賢門院(鳥羽天皇の中宮藤原璋子)や美福門院(鳥羽天皇皇后藤原得子)など天皇の母になった貴族女性とともに、院政期から源平合戦期に大きな存在となっていく。
摂関家出身の天台座主、つまり仏教界のトップ慈円をして「女人入眼の日本国」(女人が動かないと日本は前に進まない国)といわしめた社会の胎動は十世紀から始まっていた。女院は天皇の母や内親王の立場として社会的身分を固定させ、その地位を生かして、天皇・上皇の膨大な財産を管理して天皇を後見する地位を100年以上かけて築き上げていったのである。