奈良時代までは女帝や高級女官が存在したが、平安時代になると男性が権力中枢を独占し、女性の地位は後退した。日本古代史の研究者である榎村寛之さんは「一条天皇の妃となった藤原定子は女房の清少納言とのやりとりで漢文の素養をアピール。宮廷に刺激的なサロンを開き、男性と渡り合った」という――。

※本稿は、榎村寛之『謎の平安前期』(中公新書)の一部を再編集したものです。

一条天皇の妃になった定子、祖父・兼家は経済基盤を重視

女性の政治権力が衰退しつつあった10世紀後半に、その政治的能力で一時期の宮廷を席巻した女性こそ、藤原定子ではないかと私は思う。

作者不明「枕草子絵巻」に描かれた一条天皇と定子
作者不明「枕草子絵巻」に描かれた一条天皇と定子[画像=大和絵同好会(レプリカ刊行、1921年)/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

定子の祖父、摂政・関白兼家の結婚政策は父、師輔にならったのか、それまでの藤原摂関家とは少し変わっていた。彼の正妻は源氏や女王ではない、摂津守せっつのかみ藤原中正なかまさの娘の時姫だったのである。兄の関白兼通の正妻が昭子あきこ女王(陽成ようぜい上皇の子の元平もとひら親王の娘)、摂政伊尹これただの正妻が醍醐天皇の子の代明よしあきら親王の娘恵子やすこ女王であることとは大きな違いである。

この時代、とりあえず受領ずりょう(編集部註:諸国の長官)はお金持ちだった。そして兼家は摂関家という血統の安定に伴い、他の系統との差をつけるため、名より実を取り、経済的基盤を重視した。つまり家の中に安定したお財布を持ったのである。

兼家の息子3人、道隆と道兼と道長はそれぞれ性格が違った

このためか、兼家と時姫の子の三兄弟はいずれもかなり個性的だった。長男道隆みちたかはフランクで自由奔放な大酒飲み。次男道兼みちかねは老成して冷酷な、いかにも政治家然とした気質。そして三男道長は度胸の据わった傑物けつぶつで若くして大物なところがあった。『大鏡おおかがみ』『栄花物語』という歴史物語に詳しく描かれているとはいえ、ここまで性格が分かれた三兄弟というのも珍しい。

このうち、長男道隆は父にならって中級官人の娘を正妻にした。ただし、普通の受領層の娘ではない。相手は高階たかしな貴子たかこ文章生もんじょうしょうから大学頭だいがくのかみを経て大和守やまとのかみになり、一条天皇の東宮学士とうぐうがくしを務めた高階成忠なりただの娘である。つまり天皇に近い受領経験もある学者と縁を持ったことになる、いやそれ以上に、貴子は円融朝以来宮中で目立つ存在だった。父譲りなのか、『大鏡』などによると漢詩文に長じ、和歌も『百人一首』に入る(儀同三司母ぎどうさんしのはは)ほど。そして内侍ないし、つまり筆頭女官として円融、一条天皇に仕え、道隆と結婚した後も宮中に盛んに出入りしていた様子が『枕草子』に描かれている。

つまり道隆は、彼女の才能と宮中でのネットワークをねらって結婚したようなのである。道隆を見ていると、私のような古代史研究者は、すでに4人の男子を持ちながら、宮廷女官で元明げんめい天皇の信頼の厚い県犬養三千代あがたいぬかいのみちよと結婚して光明こうみょう皇后をもうけた藤原不比等ふひとを思い出す。貴子の場合は、円融天皇に近いということはその女御で国母になった皇太后藤原詮子(道隆の同母妹)とも近かったのであり、道隆には父の兼家と何かというと対立していた円融天皇に接近する意図もあったかと思われる。