「個々人が自由に解釈すればよい」の問題点

最後に、ドラッカーの知見との向き合い方について考えてみようと思います。

まず、上田さんの発言を再び引きたいと思います。上田さんは、ドラッカーの言及範囲は「社会、政治、行政、経済、経営、歴史、哲学、技芸(特に東洋美術)の八つ」にまたがるものであるため(『週刊東洋経済』2001.7.28「入門ピーター・ドラッカー 8つの顔 最終回 すでに起こった未来を語るドラッカーとは何者なのか」)、さまざまな注目の仕方や読み方が可能であり、「読者が100人いれば、100人にとって、『それぞれのドラッカー』が存在する」と述べています(『日経ビジネス』2006.8.21「分からぬものは通さず ドラッカーを訳し続ける」)。後者の記事ではまた、「自分の目に見えている事象と、常識や通念とが食い違うことがある。その時、ドラッカー氏の本をひもとくと、『あなたに見えているものが真実だ』と言ってくれている」とも述べていました。

また、経営学者の野田一夫さんはこのようなドラッカーの著述について、次のように述べています。「ドラッカー研究者の方々の多くは、彼の言を各自の専門分野の立場で解釈し、整合性のある“理論”にまとめたがる」「その所説を大小の問題別に整理し理論化するほど空しい試みはなかろう。時代を超越した彼の理論など求めるのは、愚かな努力である」(『BOSS』」2010.6「50年来の友人が語るP・F・ドラッカーの魅力」)。

2人の言及からは、ドラッカーを学術的観点から客観的に捉えようとすることよりも、個々人の置かれた状況に応じて主観的に読み解き解釈すればよいという、ドラッカーへの向き合い方が称揚されているように見えます。「一人一人のドラッカー」というような物言いも、雑誌記事ではしばしば見られます。

しかしこのような、それぞれの主観に委ねた自由な読み方の称揚こそ、私には逆に窮屈なものに映ります。というのは、今紹介したような言及においては、ポジティブに活用することばかりが称揚され、批判的に吟味検討することは無粋だとされているように見えるからです。

また、ドラッカーの知見を皆が主観的に読み解くばかりだと、次のような事態がどうしても発生してしまうように思われます。2011年の震災以前、「ドラッカーは日本的経営の祖ですし、パナソニックとかキヤノンとか東京電力とかトヨタとか、ドラッカーの言っていることを実践している会社は多くあります」とする記事がありました(上田惇生『BOSS』2009.1「パナソニック会長も窮地で学んだ『ドラッカー哲学』」)。一方、震災後には、東京電力の経営体制には問題があるとして、ドラッカーのマネジメント論を活用しようとする記事を見ることができました(荻原博子『DIME』20011.8.9「荻原式経済サキヨミ塾 第49回 ドラッカーの理論で考える、これからの電力会社のあり方」)。

このような矛盾した2つの記事について、どう考えるべきでしょうか。震災の前後で急激に東京電力の経営体制がドラッカー理論から逸脱したのでしょうか。おそらくそうではないですよね。このような矛盾は、皆が主観的にドラッカーを読み解けばよいという、今日のドラッカー理論の使われ方そのものから来る問題だと考えられます。

つまり一方では、記事や書籍が生み出されるその時点でうまくいっている組織について、ドラッカーの教えを守っている、活用している(その結果が検証された記事を私は見たことがありません)、その成功はドラッカー理論から解釈できる、と称揚がなされます。その一方で、うまくいかなかった組織について、ドラッカーの教えを守らなかった、マネジメントの視点が足りないと論難がなされる。このような、事後的な、また各論者の主観的な解釈にもとづくドラッカー理論の当てはめというパターンが、特に雑誌記事において定型化されていることから来る問題だと考えるのです。

このような、いかようにでも行える、主観的で事後的解釈のことを私は「万能ロジック」と呼んでいますが、この言葉は自己啓発書の研究を行った拙著『自己啓発の時代』のなかで造語したものでした。つまり上述の件は、ドラッカーのみに限らず、自己啓発をめぐる言論一般に共通する語り口なのだと私は考えています。

私はドラッカーの知見が合っている、間違っているという話をしているのではありません。ただ、ドラッカーの知見を個々人が自由に解釈すればよいとのみされる状況で生まれる、言論のバランスの悪さをつまらなく思っているというだけです。

本人の著作と関連書籍だけで棚ひとつが埋まる。その「インフラ」が大量の言説を生み出す。ドラッカー以外にそれが可能な人物がいるだろうか。(撮影協力・ジュンク堂書店吉祥寺店)

そもそも、ドラッカーを読めば、ドラッカーの教えを実行すれば、組織の状況は必ずよくなるのでしょうか。ドラッカーを読んでも、教えを実行しても状況は良くならないという事例は世の中に数多あるはずです。場合によれば、ドラッカーの教えを実行したことで状況が悪化することだってあるかもしれません。

こう考えようとするとき、うまくいかないのはドラッカーの教えを「真に」理解していないからだ、という反論がおそらく用意されています。しかしそれでは、話は主観的な問題に戻ってしまいます。戻っていいのだとするなら話は終わりですが、戻らないのだとすれば、たとえばドラッカーを読んでいる、その教えを実行しているということを客観的に計測するモデル――おそらくこれはあまりに単純なので、ドラッカーの主張のエッセンスを抜き出して抽象化した評価モデル――のようなものが開発・利用されるべきではないかと考えています。

私は社会学の研究者なので詳しくは分からないのですが、このような企業の客観的評価モデルは既に経営学の分野で開発され、またその蓄積もあると考えられます。重要なのは、ドラッカーに客観的な解釈は無粋だと思考停止するのではなく、どのようなケースにおいて、どのように用いるとドラッカーの知見は企業活動に促進的に作用し、あるいは阻害的に作用するのか、功罪ともに検証しようとする態度や営みを排除しないことだと考えます。

そうでなければ、ある時点で経済的に成功している人や組織が、その時点での成功のみを理由として、「人間主義」を掲げる「経営の神様」たるドラッカーの教えの体現者として賞賛される――失敗者は、人間性と経営のセンスの双方において非難される――という事態が果てしなく続くことになります。このようなとき、ビジネス誌や自己啓発書は、勝者が自己肯定するためのメディア、あるいは「勝てば官軍」というメッセージを発するだけのメディアにしかなりえないと思うのです。

こうした私の議論は、労働社会学者の伊原亮司さんの論考に影響を受けています。『現代思想』2010年8月号では「ドラッカー――マネジメントの思想」という特集が組まれ、各分野からの論考が寄せられているのですが、そこでの伊原さんの論文「ドラッカーの働き方に関する言説と働く場の実態――'時代を超える'経営イデオロギー」での言及を最後に引きたいと思います。

「時代状況に応じて都合よく権威を『つまみ食い』するのではなく、むしろ彼の言うとおりにはならなかった側面にこそ目を向けて、理論と思想の問題点を'真摯に'再検討すべきである」

さて、今回もかなり長くなってしまいました。次回からのテーマは「働くということ」です。

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