「人間主義」「マネジメント」による一点突破・全面展開

とはいえ、なぜ他の人物ではなくドラッカーなのでしょうか。ここでは、近年の記事でしばしばドラッカーと比肩される、2人の人物を挙げることから考えてみたいと思います。

1960年代から1970年代にかけて、ドラッカーが比肩されていたのはジョン・K・ガルブレイス、ハーマン・カーン、エドワード・デボノといった海外の経済学者や未来学者でした。それに対して近年比較されることが多いのは、松下幸之助氏と本田宗一郎氏です。なぜ、企業経営者の彼らが著述家のドラッカーと比肩されるのでしょうか。

まず松下氏について端的に言えば、企業の社会的貢献を重要視する点がドラッカーと共通しており、また記事でもその点が大きくフォーカスされています(『宝島』2011.4「特集 マンガと図解でわかる!ドラッカー&松下幸之助」、北康利『致知』2011.12「日本を創った男たち 11回 松下幸之助 ドラッカーも及ばない我が国が誇る至高の経営者」など参照)。

本田氏の場合は、ファーストリテイリング会長兼社長の柳井正さんが述べている次のような言及が端的です。「本田さんもドラッカーも、やっぱり『個人』ですよね。一人の個人がいかに幸せに一生を過ごすか。その人生の中で、会社というものを扱って、よい会社をどう実現していくか」(『致知』2011.2「ドラッカーと本田宗一郎 二人の巨人に学ぶもの」)。これは松下氏の場合もほぼ当てはまると思うのですが、「人」を大事にし、また「社会の公器」として企業を捉えている点において、彼らは比肩されるのだと考えることができます。

こうした見方は、先の上田さんの「最近世の中おかしい」という言及と表裏一体のものだと私は考えています。社会が、企業倫理がおかしい。だからこそ、今改めて社会と企業倫理を立てなおすべく、ドラッカーに、松下幸之助に、本田宗一郎に学ぼう、というわけです。

少し意地悪な見方をすれば、「最近世の中おかしい」「企業倫理がおかしい」と思う人にとって、「いいことを言う」ための根拠としてドラッカーらが置かれているわけです。今の企業は「派遣切り」などをして人を大事にしていない、しかし私は違うのだ、と。

とはいえ、最近突如として世の中はおかしくなったのでしょうか。企業倫理は最近とみにおかしくなったのでしょうか。もちろんリーマン・ショックのような大きな出来事はありますが、それ以後突如としておかしくなったのでしょうか。

こうした物言いの妥当性は、はっきり言って検証しようがありません。しかし、だからこそ、「今こそドラッカーを読み直し、私たちのあるべき、正しい道筋を示してもらおう」という物言いは無限に量産しうることになります。「世の中がおかしい」という、おそらくどの時代でも言われ続け、またどの時代でも当てはまる事象を多く探すことができるようなフレーズを大上段に設定できること。これこそが、ドラッカーの「強み」の一つなのだと考えられます。

さて、このような、「人」に注目するドラッカーのスタンスはしばしば「人間主義」と呼ばれます。説明が後になりましたが、雑誌記事では、このようなドラッカーの「人間主義」こそが「ドラッカー・ブーム」の根源にあると語られています。しかし、これは誰でも言えそうな、通り一遍な話ですよね。私がここまで考えようとしてきたのはもう少し先、つまりそのような人間主義を称揚し、支持するのはこの社会のどのような立場に立つ人なのか、ということでした。

もう1点、批評家・編集者の宇野常寛さんの発言から考えたことがありました。宇野さんはライブドア元代表取締役社長CEOの堀江貴文さんとの対談のなかで次のように述べていました。「日本におけるドラッカー人気はマネジメントの理論が受け入れられたというより、人間関係を調整すれば全てうまくいく、という日本的な労働観神話の延長に位置づけられる。ドラッカーを安定剤のように読む人も多いでしょう」(堀江貴文・宇野常寛『BRUTUS』2011.1.1/15合併号「今の社会人は何に動かされるのか」)。

宇野さんの発言を参照しつつ、私は「なぜ他の人物ではなくドラッカーなのか」という先の問いには、こうも答えることができると考えるに至りました。それは、どのような状況にも当てはめることのできる「(人間関係の)マネジメント」という視点や、またどのような個人でも組織でも当てはめることのできる「自分の強みを活かせ」といった視点を持っているからではないか、と。

これは、連載2テーマめの議論と同様の解釈視点に立っています。つまりドラッカーは「マネジメント」や「自分の強み」といった、それによって「一点突破・全面展開」が図れる切り口をいくつか有しているために、これだけ多くの文脈で活用され、また今日の自己啓発書市場でも生き永らえているのではないか、ということです。もう少し言えば、一点突破・全面展開が可能な視点、前回の言葉で言えば「一なる真理」がやはり求められているということかもしれません。