「とにかくバカになりたくない」は重要
勉強というと、とりあえず英語やプログラミングを始めようと考える人が多いのですが、それらはあくまでも道具であって、それを使って何をしたいのかという目的がまず先にあってしかるべきです。
仕事の場面や勉強の過程で「もっと英語が読めたほうがいいな」とか「ITリテラシーを高めたいな」と思うことがあって、それらの勉強を始めるというのが自然な順序です。しかし、英語力やITリテラシーは勉強するための道具にすぎません。
それらがあれば、確かに勉強しやすくなるのですが、道具を磨くための勉強にひたすら熱中した挙句、その道具をどこにも使えない、というのは最悪のパターンです。
目的は何でもいいのですが、「とにかくバカになりたくない」という危機感を持つということは、重要なポイントだと思っています。
私自身、そのような「バカ恐怖」が強くあるほうです。
自分も含めて、どんな人でも勉強していなければバカになると思っているからです。その発想を持たず、自分の学歴や地位に慢心しきっている人たちが、実際にバカになっていくのも見ています。人間に生まれた以上は、賢くなりたいと思うのは大事なことだと思います。
東大出身でもバカになる理由
多くの人は、「頭のよさ」を固定的なものと考えています。
「あの人は、東大を出ているから頭がいい」というふうに、一度頭がよくなった人はずっと頭がいいと思いがちです。
しかし、いくら東大を出ていても、その後勉強しなければバカになるし、三流大学卒でも継続して勉強していれば頭がよくなっていきます。そして両者が逆転するということも十分あり得るのです。
頭のよさは、一度獲得したらずっと続くものではなく、それを維持、発展させる努力をしなければ失われていくものです。
東大とハーバード大の大学院を出ていても、怒りにまかせて品のない言葉で秘書を罵倒して地位を失った国会議員もいます。それは、感情をコントロールする知能が低いという意味で「頭の悪い人」になっているということです。
怒りや不安感情にまかせて誤った行動や判断をしないよう対策を立てるなど、頭が悪くなる要素をつぶしていくことも重要になります。
私が東大受験をしたのはいまから40年以上も前の話です。当時は頭がよかったかもしれませんが、それでいまの頭のよさが保証されるわけではありません。
ノーベル賞受賞者でさえ、評価の対象となっているのは多くの場合、数十年も前の業績です。受賞が必ずしもいま現在の「頭のよさ」を示すものではないのです。