知的謙虚であれ
私にとっては、学歴や経歴が立派であることよりも、「いま頭がいいかどうか」のほうが大事です。東大の同窓会にわざわざ出かけて行って、「昔頭がよかった」人と話すより、いま賢い人と話をすることに魅力を感じます。
「いまの自分にはまだまだ知らないことがある」という、「知的謙虚」な姿勢が勉強の原動力になります。
机に向かってする勉強だけでなく、日々の経験からも学べることはいくらでもあります。
「いまはこういうものは売れないらしい」「こういうことをすると人に嫌われる」「これは健康によくないようだ」というふうに、本来なら毎日のように学びを得ているはずなのです。
昨日よりも今日の自分のほうが賢いと言える人、学歴などに関係なく「昔の自分はバカだった」と思える人が、真に「頭のいい人」だと言えます。
高学歴な人が、それをひけらかしたり、「東大に入った頃の自分は輝いていた」と、過去の栄光にすがるのは、もっとも情けないパターンです。
過去のモテ自慢をする人は、たいていいまはモテていないと言っているのと同じで、学歴をひけらかすということは、いまの自分には誇れるものがないと言っているようなものです。
どんなにすごい過去を持つ人よりも、いまがすごい人のほうが立派なのは言うまでもありません。
昨日より今日、今日より明日のほうが賢い自分になる。そのために勉強するということが大切です。それを積み重ねていけば、スタート地点がどこであっても、誰でも「頭のいい人」になれるのです。
試さなければ意味がない
私の本の読者の中には、私が書いた勉強法の本を片っ端から読む、「和田オタク」と呼ばれる人たちがいます。
そんな「和田オタク」の子を持つ親御さんから、「うちの子は和田先生の本をたくさん読んでいるのに、成績が上がらないんです」とクレームを受けることがあります。
そこで「もしかしたら、本を読むだけで勉強していないんじゃないですか?」と確認してみると、その通りだった、などということがあります。
勉強法の知識がいくら多くても、それを実行しなければ成績は上がりようがありません。
「和田オタク」の人にはもうひとつ、本で仕入れた勉強法を他人に教えたがるという特徴があります。結果的に、教えられたまわりの人はそれを実行して成績が上がり、教えた本人だけが取り残される、という皮肉な現象が起こります。
私が何より残念だと思うのは、勉強法の本を読んでも、それを実際に試す人がきわめて少ないということです。本に書いてあることをすべて試すのは難しくても、ひとつでも2つでも試してみれば、変わることがあるはずです。
「試さない」ことが、一番の問題です。試して損をすることは基本的にありません。あったとしても多少の時間ぐらいのものです。うまくいかなければ、またそれとは別のやり方を試せばいいのです。
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ」というエジソンの有名な言葉のとおり、試してうまくいかなかったとしても、それを知っただけでも意味があります。このやり方は自分に合わないということがわかれば、その方向でそれ以上無駄な努力をしなくて済みます。
何がうまくいくのか、いかないのか。すべてはやってみなければわからないのです。変化の激しい時代だからこそ、「やってみなければわからない」という発想をつねに持っておくことが大事なのです。