追放先がないのに増え続けるユダヤ人
ドイツ支配圏におけるユダヤ人問題を管轄するナチス親衛隊は、同支配圏内で暮らすユダヤ人の追放先として、当初は中東のパレスチナやアフリカのマダガスカルを想定し、対ソ戦開始後はソ連領内の奥地も追放先として検討した。だが、イギリスとソ連がドイツに屈服せず、戦争継続の姿勢をとり続けたことで、ドイツ支配圏外へのユダヤ人の強制追放という選択肢は、実現することが不可能となった。
その間、ドイツ軍はヨーロッパ各地で戦勝を重ねて占領地を拡大し、それに伴ってドイツ支配圏のユダヤ人の数も増大していた。
1939年9月に第二次世界大戦が勃発した時、ドイツ国内には約35万人のユダヤ人が存在し、旧ポーランド北西部の併合により約55万人が追加されたが、この約90万人のうち、1941年末までに総督府領内へと移送されたのは、約13万人だった。
総督府領には、移送を受け入れる前から約150万人のユダヤ人が存在したが、戦争序盤の連戦連勝に伴うドイツ支配圏の拡大により、各占領地から移送されるユダヤ人の数は増え続け、1941年末には250万人近くに達していた。
ナチス親衛隊員の負担を軽減する殺害方法
ヒトラーと側近の親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーは、ドイツ支配圏からのユダヤ人排除という問題を解決するには、ユダヤ人を「絶滅」させるしかないとの結論に至り、ハイドリヒとその部下アドルフ・アイヒマンらは、のちに「最終的解決」という隠語で言い表されることになる、ユダヤ人の組織的虐殺という非人道的な作業に着手した。
ドイツ軍によるソ連侵攻の過程では、ドイツ支配圏におけるユダヤ人をこれ以上増やさないため、占領地のユダヤ人を親衛隊の特別行動部隊が乱暴に射殺するという方策がとられた。だが、ごく普通のユダヤ人市民を、問答無用で大量に殺害するよう命じられた親衛隊員の中には、心的外傷(トラウマ)で精神に不調を来す者も現れ始めた。
それを知ったヒムラーと親衛隊幹部は、ユダヤ人を虐殺する親衛隊員の「心理的負担」を軽減でき、なおかつ単位時間当たりで殺害できるユダヤ人の数を増大させる方策を検討し、毒ガスによる組織的殺害という手段の研究が進められた。
まず試作されたのが、密閉された空間に大勢のユダヤ人を閉じ込め、そこに有毒な排気ガスを送り込んで一度に殺害するという、異様な構造を持つトラック(特殊自動車=ゾンダーヴァーゲン)や家屋だった。