「サブカルチャーの殿堂」を作ったワケ

――ロフト解散宣言後はアフリカに行ったんですね。

【平野】バックパッカーになって、84年から3年間で87カ国を放浪しました。そのあとは、ドミニカで5年間、日本食レストランを経営していました。1990年に大阪で開かれた「国際花と緑の博覧会」でドミニカ政府代表代理、ドミニカ館の館長もまかせてもらいました。

そんなときに「新宿ロフト」の立ち退き問題が持ち上がったのがきっかけで、92年に帰国したんです。

撮影=プレジデントオンライン編集部
現在の新宿ロフト

ひさびさに訪れた「新宿ロフト」は、もともと自由な空間でしたがぼくが一切口を出さずに人任せにしていたおかげで、より自由な空間として残っていた。

それはよかったのですが、問題はぼくの音楽観が通用しなくなっていたこと。新しいバンドも知らないし、社会の変化にも世間の流行にもついていけない。

「新宿ロフト」の移転先もめどが立ったこともあり、今度は自分が楽しめる場をつくろうとトークライブハウス「ロフトプラスワン」を95年に立ち上げた。

――いまや「ロフトプラスワン」は、サブカルチャーの殿堂とも呼ばれています。

【平野】正直に言えば、成功するなんて思ってもいなかったんですよ。だって、トークで3000円、4000円も取るんですよ。まさかこんなに認知されて人気が出るとは想像もしていなかった。

とはいえ、いまの「ロフトプラスワン」はぼくが思い描いていた形とは大きく違います。実は、ぼくがホスト役をつとめる「エド・サリヴァン・ショー」をやりたかったんですよ。

77歳の時に下した大きな決断

【平野】でも、ぼくはエド・サリヴァンにはなれなかった。

うちのスタッフが女優の渡辺えりを「ロフトプラスワン」に呼んで、ぼくがホストをやったんです。ぼくが、昔の劇団民藝の話をしたら、「あんた劇団民藝の何を知っているんだ!」って渡辺えりがキレちゃって。

ホストをやるのがいかに大変か実感しました。あれから基本的にホストは辞退しています。いまはぼくが出る幕はありません。

そんな経験を何度もしているからか、「新宿ロフト」にしても、「ロフトプラスワン」にしても、自分のモノという感覚はありません。執着がないと言えばいいか……。店はいつか潰れてしまうものでしょう。だから僕がいついなくなっていい。あとは、若い人たちが何かするでしょう。だからぼくは引退したんですよ。

(後編へ続く)

(インタビュー・構成=ライター 山川徹)
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