「ロックのパイオニアになれる」というささやき

――そうしたロックというジャンルの胎動に合わせるようにして、ロフトは各地に展開していくわけですね。

平野悠『1976年の新宿ロフト』(星海社新書)
平野悠『1976年の新宿ロフト』(星海社新書)

【平野】と言っても、経済的には四苦八苦していました。コーヒー一杯が120円の時代ですからね。スナックの売り上げが1日2万円で、月60万円くらい。これじゃ生活がやっとです。そこで、2軒目のオープンを模索しはじめた。そんなとき常連の音楽評論家から吹き込まれたんです。「ライブ空間がある店をつくれ。そうすれば、平野さんは日本のロックのパイオニアになれるよ」と。

ロックのパイオニアになれる――この悪魔のささやきが、73年にオープンしたライブハウス「西荻窪ロフト」の原点になりました。

何もかも手探りではじめての挑戦だったけど、「西荻窪ロフト」の登場をみんなが本当に喜んでくれた。まだライブハウスという言葉すらなかった時代で、客にとってはレコードでしか聞いた経験のないロックやフォークを生で体験できて、ミュージシャンにとっては自由に表現できる空間ができたわけだから。

しかし問題もありました。騒音がヒドくて、近隣から苦情が殺到し、弾き語りのフォークライブしかできなくなってしまったんです。

それなら、と次の年に本格的なロックのライブハウス「荻窪ロフト」を開いた。坂本だけでなく、細野晴臣や大貫妙子、シュガー・ベイブ、はちみつぱい、ハイ・ファイ・セット、桑名正博、RCサクセション、矢野顕子……。錚々たるミュージシャンたちがロフトに集まってくれるようになったんです。まだまだ手探りだったけど、熱気があった。これからロックの時代がはじまるんだと確かな手応えを感じました。

昼はロック喫茶、夜はロック居酒屋

――マイナーなジャンルだったロックのライブで、経営は成り立ったんですか?

【平野】それが、儲かったんですよ。ただし、まだ無名のミュージシャンたちも多くて、ライブだけでは集客が見込めなかった。儲けだけを考えたらライブハウスなんて経営しない方がいいに決まっています。

でもただでさえ数が少ないライブハウスがなくなってしまっては、ミュージシャンも演奏する場を失ってしまう。経営的に成り立たせるために、いろいろと工夫しました。

ロフトの経営を支えたポイントは2つあります。ひとつが居酒屋営業。

ライブは週末や祝日だけで、昼はロック喫茶、夜はロック居酒屋にしました。ライブがある日も終演後の夜10時頃から居酒屋がスタートして、始発まで営業を続けた。

ライブが終わったあと、演者は打ち上げで朝まで酒を飲むでしょう。残ったお客さんも打ち上げに交ざっていく。そんな話が広まり、ミュージシャンと一緒に飲むのを目当てに来店するお客さんが増えていった。その結果、ライブで儲けが出なくても、黒字化ができるようになったんです。

平野さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
「ライブ後の居酒屋営業では、たくさんの新しい音楽が次々生まれた。まぁ、ケンカも多かったけど」と笑う平野さん

ライブ後の居酒屋営業で、何よりも面白かったのは、ミュージシャン同士、あるいはお客さんとミュージシャンのコミュニケーションです。飲みながら突然、セッションがはじまったり、いきなり新しいバンドが生まれたりする。もちろんケンカもあった。

ぼくは常々ライブハウスは「コミュニケーション空間」であり「情報発信基地」だと話しています。それは、西荻窪と荻窪での居酒屋営業の経験があるからなんです。