その後のライブハウスがマネしたシステム
【平野】経営を支えたもうひとつの要素は、チャージバック制の導入です。あの頃、ミュージシャンにわたすギャラの相場が1万5000円で固定だった。対してチャージ(入場料)がひとり400円とか500円。数人しか客が入らないことも珍しくないから、ミュージシャンにギャラを払ったら、店がもたない。
だから2軒目のオープン後しばらくしてから、固定ギャラ制を廃止して、お客さんの人数分のチャージを全額ミュージシャンが受け取れる仕組みに変更しました。
この「チャージバック制」は、演奏を聴きにきたお客さんが支払うチャージは演者のもので、店は飲食で稼ぐべき、というぼくなりのポリシーから生まれたシステムだったんです。
――いまでは多くのライブハウスが導入しているシステムですが、平野さんが考案されたんですね。
【平野】それがぼくの自慢なんです。ほかのライブハウスもすぐにマネしはじめた。当然です。そうしないとやっていけないんだから。
チャージバック制やライブ後の居酒屋営業は、確かにロフトの経営を支えてくれた。でもそれ以上に大きかったのが、時代です。
ロックにスピード感があったと言えばいいか……。日本中でロックバンドがどんどん結成された。だから、ぼくらも“ロックのパイオニア”として、ロックのスピードに合わせて1975年に「下北沢ロフト」を、そして1976年に「新宿ロフト」を立て続けにオープンさせたんです。
集大成が「新宿ロフト」です。キャパシティ300人はあの時代としては画期的な広さでした。当時最大のスピーカーをアメリカに買いに行き、付き合いがあるミュージシャンを総動員して、オープニングセレモニーを行いました。ロックにも勢いがありましたが、ぼくもまだ32歳。青春のまっただ中だったんです。
ライブと革命は似ている
――逮捕されるほど学生運動に傾倒したとおっしゃっていましたが、学生運動とロックに重なる何かを感じたのですか?
【平野】いまになるとバカみたいな話だけど、学生運動にかかわっていた時期はプロの革命家を気取っていたんですよ。ヘルメットかぶって、ゲバ棒を持ってね。その時代に「音楽で革命」なんて聞いていたら「そんなのできるわけないだろう。暴力革命しかない」と粋がっていたはずです。体制をぶっ壊すんだ、と(苦笑)。
改めて振り返ると、予定調和からの逸脱という点で、ライブと革命は似ているのかもしれません。
ライブハウスは何が起きるか分からないから面白い。客とミュージシャンがケンカになったり、物を投げ合ったり……昔のロフトではそういうことがしょっちゅうあった。