1970年代の日本では、それまでマイナーな音楽だったロックが大流行した。そのきっかけのひとつが、東京各地にできたライブハウス「ロフト」だ。なにが新しかったのか。なぜ大流行となったのか。『1976年の新宿ロフト』(星海社新書)を書いたロフト創設者の平野悠さんに聞いた――。(前編/全2回)(インタビュー・構成=ライター 山川徹)
平野悠さん
撮影=プレジデントオンライン編集部

坂本龍一がロックに目覚めた「ロフト」

――「ロフト」は、坂本龍一、浜田省吾、サザンオールスターズ、BOØWY、スピッツらロックミュージシャンを育てた聖地と知られています。始めたきっかけはなんだったのでしょうか。

【平野】もともとぼくはロックに興味がなかったんですよ。若い頃、全共闘運動で2回逮捕された経験があって就職できなかった。で、当時流行していたスナックでもやろうかと、71年春、26歳の時に京王線の千歳烏山駅近くに7坪の店をオープンした。

ジャズスナックと言ってもぼくが持っていたレコードは40~50枚程度。そんなぼくを不憫に思った常連が、レコードを持ち込んでくれた。持ち寄ったレコードを聴きながら、みんなロックに目覚めていったんですよ。「はちみつぱいが面白い!」「はっぴいえんどがいい!」って語り合って盛り上がった。

坂本龍一も「烏山ロフト」の常連のひとりでした。東京藝大でクラシックを学んでいた彼もレコードを聴いて「ロックってスゴいね」と言い出した。坂本は「ジャズスナック・ロフト」だけでなく、その後に出来た「西荻窪ロフト」「荻窪ロフト」「下北沢ロフト」「新宿ロフト」にも足を運んでくれた。

そこで彼は、たくさんのロックミュージシャンと出会って、りりィ&バイ・バイ・セッション・バンドに参加する。坂本龍一という日本の音楽シーンを牽引した天才も、ぼくたちと一緒に千歳烏山の辺鄙なスナックでロックに目覚めた若者のひとりだったんです。

とはいえ、当時ロックはまったくのマイナーなジャンルだった。日本のロックバンドは、先駆者の内田裕也さんから「ロックは英語で歌え。そうしないと世界に通用しない」というプレッシャーを与えられ、海外のレコードをコピーするくらい。

そんな状況に「なんで日本語で表現しちゃいけないんだ」と反逆したはっぴいえんどや、ムーンライダーズなどが日本語で歌いはじめた。