80年代のバンドブームは「愚か」

【平野】記憶に残るのがマイナーだった時代の、あるロックシンガーです。「新宿ロフト」でライブ中に電源が2回も飛んでしまったんですよ。原因はバンド側にあったのですが、演奏が途切れた。するとその歌手がアカペラで歌った。やがてお客さんも歌いはじめて、最終的に大合唱になった。こんな一体感がある空間がほかにあるだろうかと本当に感動しました。

でもこのエピソードには後日談があるんです。その歌手を売り出そうとしていたレコード会社がライブハウスでの混乱を嫌って「ロフトにはもう出さない」と怒ったらしい。結局、その人はこのライブを最後にロフトのステージに立つことはなかった。

81年の新宿ロフト
©地引雄一
81年の新宿ロフト(『1976年の新宿ロフト』より)

ミュージシャンが有名になると古巣から旅立っていく。これはライブハウスの宿命です。でも、このときは「ちょっと待ってくれ」と思った。ロックは反権力、反体制のシンボルだったはずでしょう。その頃から「がんばろう」とか「手をつなごう」とか薄っぺらい人生応援歌のような楽曲を歌うバンドが増えてきた。

孤立無援だったはずのロックミュージシャンに、大手の芸能事務所やレコード会社が目を付けたんです。そして80年代のあの愚かなバンドブームにつながっていく。ライブを経験していないようなバンドが青田買いされて、瞬く間に売り出されて消費されていく。

それまでぼくが付き合ってきたのは、孤立無援の独立したミュージシャンたちだった。彼らが芸能界に絡め取られていく。ぼくはもうイヤになっちゃって……。

仕事を辞めるきっかけはBOØWYだった

――1984年、順調だったライブハウス「ロフトプロジェクト」の解散を、突如宣言しました。いったいなぜですか?

【平野】81年の春に、ぼくを訪ねてきた音楽制作会社ビーイングの創業者・長戸大幸さんに、高崎出身の元暴走族の「暴威」というバンドがあるのだが、手に負えないから面倒を見てくれ、と頼まれたんです。実際に会ってみるとカミソリみたいなギラついた連中だった。

暴威は81年5月に「新宿ロフト」でロフトデビューを飾りました。でも、客はわずか13人。その後、BOØWYに改名して、ファーストアルバムを出したんですが、鳴かず飛ばず。

そんな時期、彼らはライブに打ち込みました。「新宿ロフト」では月に一度のペースで続けていた。メンバーに不協和音が生じていて、解散の噂が常に流れていたけれど、彼らの動員はどんどん増えていった。ついに300人の新宿ロフトのキャパでは入り切らなくなり、主戦場をより収容人数の大きいライブハウスへ移していった。

アルバムのリリースも決まり、人気者となった彼らの勢いを目の当たりにして、ぼくの出番はもうないなと感じました。加えてロフトを手がけて、10年近く経っていたでしょう。少し前から音楽業界から離れたくて仕方なかった。80年代のバンドブームから商業主義的なバンドが増えて、音楽自体への関心が薄れてしまったのかもしれません。

そんなぼくに対して、BOØWYのマネージャーの土屋浩が涙を流しながら言うんですよ。「平野さん、BOØWYから逃げるんですか?」って。

ぼくは「もう興味がない」と言うと、彼は「見ていてください。BOØWYは絶対に天下を取って見せますよ」って。その1年後です。アフリカでBOØWYのブレイクを耳にしたのは。