今回の脚本家・相沢友子氏は映画『重力ピエロ』『プリンセストヨトミ』などの脚本も手掛ける実力派であり、マンガ原作のドラマ化も「鹿男あをによし」や「ミステリと言う勿れ」など個性が強い主人公が登場する作品を数多く手掛けている。原作者がどれくらい自分の作品に思い入れがあるか、その世界観を大切にしているかはよく理解していたはずである。
ネットなどでは脚本家を誹謗中傷する投稿が見られるが、「今回のことでは、脚本家も大変傷ついているだろう」といったことを想像するべきだ。相沢氏は昨年末、自身のインスタグラムに「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」などと投稿し、SNSで炎上する騒ぎとなったが、脚本家も、テレビが生み出したコミュニケーションの断絶という状況の「被害者」なのだ。
一点あえて指摘するとすれば、脚本家とプロデューサーの三上絵里子氏とのタッグが初めてだったということだ。ここに大きなターニングポイントがあったのではないかと私は直感している。
前述したように、プロデューサーと脚本家がタッグを組むキモは、“都合を聞いてくれ”“使い勝手のいい”間柄になるほどまでに信頼関係が築けていることである。いまのテレビのドラマ現場のスピード感のなかで、編集者を通じて聞いた原作者の要望の微妙なニュアンスを初めて組む相手に的確に伝えられるだけの時間と余裕があったかどうか、それは私にもわからない。
テレビ局が「原作モノ」と言われるドラマを多産する理由
では、今回のように原作者側とコミュニケーションを取る手間やトラブルに発展する可能性があるにもかかわらず、どうして実際には「原作モノ」と言われる原作を基にするドラマ作品が多くなるのか。
一言でいえば、これは創り手側にとって「安心」だからだ。
原作がある作品は、ある程度視聴者が「どんな作品であるか」を知っている。ヒットしたマンガや売れた小説などの場合には、その人気を「アテ」にすることもできる。また、デジタル情報化によって視聴者側の想像力が著しく損なわれているいまの時代、もともと形があってイメージを提示できている作品はアピールする力も強いと考えられる。
「既知のもの」に人間は共感しやすい。自分が好きだった原作の主人公を演じる俳優に共感しやすいというのも自然のことだ。その俳優を知っていたり好きだったりすれば、さらに共感度は高まる。
そして原作モノにはもうひとつ、創り手側にとっての大きなメリットがある。
それは企画を通しやすいということだ。「想像力が欠如している」のは、視聴者側だけではない。テレビ局の企画を選定するセクションの人間も同じだ。私が企画提案をする際に、「なんでそんなことも想像できないのか」とイライラしたり、あきれたりすることも一度や二度ではなかった。
「わかりやすく」「万人受けがする」作品のオンパレードを誰が見たいと思うのか。そんな相手に「どんな作品か」を説明したり提案したりするときに、「ヒット作の○○です」や「ベストセラーの○○」と言った方が通りがいいのは自明のことだ。
そして「原作モノ」のなかでも、マンガ原作は特に需要が大きい。
ドラマのプロデューサーは少しでも話題になったり売れたりしたマンガはほとんど読んでいる。そして深夜のドラマ枠などの企画募集の折には、その8割がマンガ原作の提案で占められる。マンガに強い小学館や集英社の原作には、同時に何件も問い合わせや「ドラマ化したい」というオファーが殺到し、映像化権は競合する。